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「出会い」×「意味」=「出逢い」

私たちは日々、数多くの出会いに満ち溢れていますが、その1つ1つに何を見出すかは、人それぞれではないでしょうか。

「出逢い」は、物理的な「出会い」とは異なり、そこに何らかの「意味」が込められています。

それは、その時には気づかなくても、後になって際立つこともあるでしょう。

「出会い」を「出逢い」と知り、その好機をつかむには何が大切でしょうか。

一打一生 これほどの努力を人は運という

川上哲治

世界的な発明も現れてしまえば、誰にでもできるかのように思うかもしれません。しかし、その考えと実行に至るかどうかは、紛れもなく実力差と言えるでしょう。

ここでは、「出逢い」について、哲学者ハイデガーの存在論に立ち入らずに、哲学的に考えたいと思います。

※ここで述べる「出会い」や「出逢い」は、人間関係のことだけではなく、あらゆる物事に対しての機会と捉えてください。

「出会い」と「出逢い」との違い

いつ、どこで、誰と、どのように出会ったのか、時間的・空間的に考えられるのが「出会い」です。

物理的に捉えることができる「出会い」に対して、「出逢い」はそれがもつ「意味」が重要になります。

しかもそれは、他ならぬ「自分にとって」どうなのかが問われます。自分に関係の無いことは「出逢い」にはなりません。

そのため、他人のことも自分のことのように思える人は、それだけ「出逢い」の機会が多いのです。

西田哲学の観点から、私たち人間はあらゆる物事に対して「意味」を与える立場にあります。それは、「意味」無き「出会い」は1つもないことを指しています。

「出会い」の多くは自分ではどうしようもありませんが、「意味」は自己のあり方によって異なり、また変えられるのです。

川上哲治さんの言葉にもあるように、大切なのは「出逢い」に対する準備(未来)であり、姿勢(現在)であり、それをどう活かすか(過去)です。

結果的な失敗も、それを改善の好機と捉えることで、成功のための善き「出逢い」にもなるのです。

「出逢い」の達人

繰返しになりますが、「出逢い」は好機です。どんな「出会い」も好機になり得ます。

どのような人が好機に恵まれるかと言うと、下記「1」よりも「2」、「2」よりも「3」です。

  1. 他人のことも自分のことのように思えて仕方がない

  2. 組織のことも自分のことのように思えて仕方がない

  3. 社会のことも自分のことのように思えて仕方がない

このように器が深くなると、自分だけでないものまで入ってくるので、喜びも深ければ、悲しみも深いのです。

「出逢い」の達人は次の言葉を残しています。

愛の反対は憎しみではなく、無関心なのです。

マザー・テレサ

「深い」というのは「大きい」のとは異なり、自己の奥深くが明るく照らされることによって、その正しさを知り(真)、その善さに気づき(善)、温かさが感じられるのです(美)。

ソクラテスはこの世を去る前、「真善美」は1つであると説きましたが、それは何か特別なところにあるのではなく、私たちの日常にあるのです。

あなたの家に帰って、あなたの家族を愛してあげてください。

マザー・テレサ
「世界平和のために、私たちにできることは何ですか?」に対する回答より

先見性あるものづくりへ

社会のことも自分のことのように思えて仕方がない人は、今自分が困っているのは、自分だけでなく、社会の人たちも同じように困っていることに気づくことができます。

そのようにして、先見性を発揮し、前例のないものづくりを展開するのであって、私利私欲のための合理的営みだけでは、構造上「出逢い」が少なく、好機を得られないのです。

ものづくりの分野も人と人との「出逢い」が支えるものと思いますが、運命的な「出逢い」というのも、それは運なのではなく、その人の人徳が引き寄せるのです。

「出会い」は偶然、「出逢い」は必然ということです。

小川雅

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