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現代の「観光」と「旅」から考えるニューノーマルトラベラーに関するアイデア

初回のPOOLOの講義の中で、(株)TABIPPOの代表である清水 直哉氏からの
講義の中で、「『旅』と『旅行』と『観光』の違いとは?」という問いがありました。

講義を聞いていた中、頭の中で現代における『旅』と『観光』の在り方について、そしてニューノーマルトラベラーについて、自分の中で考えが浮かんできた為、ここに書き残しておきます。

注)浮かんだことを思いつきで書いておりますので、事実との相違やツッコミどころは大いにあると思います。その点はご承知おきください。

「観光」と「旅」の違いとは?

さて、私の中で、「観光」と「旅行」と「旅」の違いは、以下のように考えました。

観光:有名な場所を中心によく知られた決められた名所や風景を訪れ、見聞し、経験すること。
どちらかといえば、行き先が固定されて定まったもの

好きな場所を訪れ、自由に経験し、自分の価値尺度で見聞し、楽しむこと

ちなみに・・・旅行は、「どちらかといえば、大人数で行う旅や観光」と考えます。旅行という単語を使った日本語が、卒業旅行、修学旅行、社員旅行、家族旅行等、いずれもすべて集団寄りであったため。

そして、この定義をもとにした時、まず、「観光」が見えてきました。現代において「観光」は一般化し、拡大しているのではないか?ということです。

SNS社会と「観光」

例えば、InstagramやTwitterを覗くと、ホテルや観光スポットの情報を紹介するアカウントが、日常的に観光情報を発信しています。

その情報を見て、インスタ映えするスポットを訪れたり、インスタ映えする食べ物を食べるために遠出する人もいます。

表現が悪いですが、有名な場所を訪れてその地を楽しむだけでなく、その記録を残しつつも発信し、SNS上での自らの承認欲求を満たす、そういった層は一定数います。

このように、SNSを通じて見知った場所を訪れ、楽しみ、自らもSNSに投稿する「観光」は、ごく当たり前になっているように思います。

SNSで紹介されている「観光」スポットの例として浮かんだのがバンコクの寺院、ワットパクナムです。

バンコクのワットパクナム

タイ旅行に関するSNS投稿の中で高確率で見かける気がするこの寺院は、写真撮影スポットとして日本人の中では人気のスポットでしょう。

バンコクに数多寺院があり、いわゆる三大寺院というわけでもない、このワットパクナムは、おそらくSNSを通じて広がった観光地の一つだと思います。

果たして、日本人以外の海外の人にとって知られているのか?は、個人的には疑問です。試しに「wat paknam」とアルファベット表記で検索をかけると日本人の投稿がほとんどであることからも、日本人のSNSコミュニティ内で広まった観光地である可能性があるのでは?と思います。

余談になりますが、、このワットパクナムの分院が何故か日本の成田にある事実のほうが、私は気になります。

このように、SNSによって紹介されていた有名な特定の場所を訪れるというこの形式は「観光」だと思いますし、このスタイルは現代において一般化してきているように思います。

ツーリズムという言葉から考える「観光」の拡大

最近、広がりを見せる〇〇ツーリズムを「観光」と捉えるなら、ビジネスという視点から捉えても、観光はその存在を広げています。

例えばエコツーリズムは、

地域ぐるみで自然環境や歴史文化など、地域固有の魅力を観光客に伝えることにより、その価値や大切さが理解され、保全につながっていくことを目指していく仕組み

エコツーリズムとは|エコツーリズムのススメ|環境省 (env.go.jp)


ウェルネスツーリズムは、

旅行という非日常的な楽しみの中で、旅行中のトラブルを回避したり、健康回復や健康増進を図るものをさします。そして旅をきっかけとして、旅行後も健康的な行動を持続することにより、豊かな日常生活を過ごせるようになることをいいます

ヘルスツーリズムとは|日本ヘルスツーリズム振興機構 (npo-healthtourism.or.jp)

その他にも、美や健康の為に施術を受けに行く、医療ツーリズムや美容ツーリズムも同様です。

これらの、ツーリズムは、ある土地の有名な場所を訪れ、名物を楽しむことが主であった「観光」に、その地域を訪れる理由となる新たな目的を加えました。

ただし、これらのツーリズムにおいても、目的ありきであるため、訪れた地で行く先は決まっており、名所が特定の「目的」に代わった、行く先のある程度固定化した「観光」だと考えます。

以上のように、
・SNSで紹介された観光地を訪れ、SNSに投稿するSNSの存在の大きい「観光」
・単に名所を訪れることにとどまらない新しく生まれた目的に応じて滞在する〇〇ツーリズム
これらが現代の「観光」の姿なのではないかと考えます。

旅人がネガティブに捉えられる理由から考える「旅」

さて、話が飛んで、ここから「旅」について考えていきます。

「旅人」という言葉は、ネガティブに捉えられているという話がありましたが、それは、「旅人」が長い間、特異的な存在であったからと考えます。

歴史を遡ると、人は一つの地域に定着をし、その地で、自分の食料や必要なものを生産し、生活をしている期間が長かったように思います。

強いて遠方に赴く機会があるとすれば、お遍路など、自身の宗教的な側面が強かった。キリスト教の聖地巡礼やイスラームのメッカ巡礼等、海外の場合も同様です。

いずれも、自らの信じる対象に対して救いを求める旅路であり、楽しむことに重きはおかれていません。

そもそも自分の住むエリアから出ることが稀だったのではないでしょうか?

その理由の一つは、物理的な移動手段の問題で、鉄道や車が発明されたり、交通網が整備されるまでは、長距離の移動が困難であったからだと考えます。

さらに「世界が平和になったから」というのも理由として挙げられます。国と国が戦争状態であれば、他の国に渡ることそのものが命を伴う可能性があります。

移動手段も限られ、自分の知るエリアの外に移動することにリスクのあった時代の人にとって、定住することは当然の選択であったと思います。

そんな決められた世界の中で生活をすることが大多数を占める世界の中で、自在に街を渡り歩いていた存在がいたとすれば、それは、特異な存在であったと思います。

外部との繋がりの限られた当時の人間にとって、外から来るその存在は、特異であるがゆえに、ネガティブに捉えられていたのではないでしょうか?

そんな時代に「旅人」になることを選択した人々は、自らの好奇心を満たすために行動をし、自らの好きに行動をする、誰よりも自由な存在であったに違いないでしょう。

「旅」の敷居が下がった日

旅人、においての大きな転換点の一つはグローバル化だと思います。

第二次世界大戦を経て、冷戦を終え、世界は一つになりました。
アジアやアフリカの国々が整備され、外部からの人を受け入れる土壌が整い、今のように自由に行き来できようになったのも、ほんのここ数十年での話であるように思います。

現在、ウクライナとロシア間では戦争は起こっていますし、紛争の残る地域はあるとは思いますが、そういった地域を除けば、行こうと思えばどこにでも行くことが出来る時代になりました。

もう一つ、インターネットを通じて、世界が繋がることが出来るようになりました。

インターネットを使えば、求めれば必要な情報が得られるようになり、地球上の反対側の人と容易にやり取りすることが出来るようになりました。

この二つによって、世界の未知だった世界はわかるようになり、代わりに世界に一歩踏み出すハードルは下がったと思います。

そして、以前は、特異な人の選択肢であった「好奇心のままに自由に旅をする」という選択肢は、現実的な選択となったのではないでしょうか?

人間の自由と旅

さて、急に話は変わりますが、昨今、チャットGPTを始めとするAIの発達が目覚ましいです。
以前より広がりを見せるRPAとも組み合わせると、将来的に人間が行う必要のある仕事は少なくなる日が来るかもしれません。

AIによって将来無くなる仕事〇〇選のようなことが言われている今の世の中において、実は重要で、わたしたちを豊かにするのは、その人らしさなのではないかと私は考えます。

具体的には、個々人の持つ好きなことや興味関心、経験から生まれる何かです。

例えば、麻婆豆腐がどうしようもなく好きな人がいるとします。
彼は、麻婆豆腐があまりにも好き過ぎて、1日1回は麻婆豆腐を食べ、麻婆豆腐のレシピを多く調べ、麻婆豆腐のために時に遠方に赴くこともあります。

その麻婆豆腐に対する情熱は、他の人にとっては理解しがたいものかもしれませんが、彼が考えるおすすめの麻婆豆腐のお店や理想の麻婆豆腐像は、好きと情熱があってこそ、生まれる独自のアイデアです。

仮に彼が麻婆豆腐に対する情報を発信した場合、同様の発信はAIには成し得ないと思います。
機械には味覚はありませんし、麻婆豆腐屋の情報や成分に基づいた最適解を導くことは出来るかもしれませんが、麻婆豆腐愛に基づいて生まれた経験に基づく生の意見は、人にしか生み出せないものだと思います。

そして、そうやって生まれた情報にこそ、人は惹かれるのではないか?と思います。

そういった自らの好きなものを求めて、遠方を訪れ、望む体験をするその活動こそ、まさしく「旅」なのではないか?と思います。

それは、自らの関心に基づいて、世界を渡り歩いていたかつての旅人と同じように。そして、かつて旅人が特異な存在であったように、時にその「好き」は理解されないかと思いますが。

そして、その好きを追い求めた結果、辿り着く先は、地球の反対側かもしれませんし、現代でもアクセスが困難な未踏の地かもしれませんし、はたまた隣町の商店街かもしれません。もしかすると、Web3上というインターネット上の世界にあることもあるのかもしれません。

それでも、自ら価値を見出した何かを求めて、移動し、活動することは、距離に限らず「旅」なのではないか?と私は思っています。

結論 ニューノーマルトラベラーとは?

突然、話が飛躍した気がするので、これまでの話を含めて、私なりのニューノーマルトラベラーに対する考えをまとめて結びとさせていただきます。

グローバル化によって世界が一つになったことで様々な国に行くことが容易になり、インターネットを通じて様々な情報が得られるようになった現代においては、自らの「好き」を追い求めて、どこまでも行くことが出来るようになりました。

自らの関心に基づいて、自らの感性で情報を得て、自らの足で、その好きを探求するために、様々な場所を訪れる。

そういった活動こそが、今を生きるニューノーマルトラベラーなのではないでしょうか?

いつかYouTuberの謳い文句になっていた(?)「好きなことをして生きていく」
まさにその通りなのかもしれません。

そんなニューノーマルトラベラーが多く生まれ、集まった時、果たして何が生まれるのか?
間違いなく面白い何かが生まれる気がします。

さあ、皆さん「旅」をしましょう!



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