3連休に読んだ『グレート・ギャツビー』〜自動車事故と射殺事件〜

『グレート・ギャツビー』といえば、レオナルド・デュカプリオ主演で映画化された。はじめてこの映画を観て圧倒されたのを覚えている。もちろん映画だからアメリカ社会が色彩豊かに表現されているのだが、1920年代の日本の姿と比較したらえらい違いなわけで、とにかく衝撃的だった。まさにアメリカン・ドリーム。

ちょうど映画を観た後にアメリカ文学史の必修科目を受講して、授業の期末レポートは『グレート・ギャツビー』を読んで、それをテーマに書いた。

それからというもの『グレート・ギャツビー』以外にも『ジャズ・エイジの物語』、『パット・ホビー物語』、『夜はやさし』等のフィッツジェラルド作品を読んできたのだが、先日ブックオフで光文社古典新訳文庫の『グレート・ギャツビー』が220円で売っていたので、せっかくなので購入して読んでみた。

感想としてはスッキリとした訳文で読みやすかった。ただ野崎孝訳を愛読している身としては、言い回しの回りくどさを削ぎ落とし過ぎて、ステーキでたとえるなら、せっかくの美味しい霜降りの脂身まで削ってしまったような感じもした。とにかく赤身が好き(スラスラ内容を読みたい)人にはうってつけだ。

3年ぶりにこの作品を読んで、はじめて気づいたことがある。わたしはこの作品を読むときにアメリカの陰陽の陽(アメリカン・ドリーム)に気が向いていた。もちろん毎度読む度にギャツビーの死や彼の出自や経歴に思うことはあった。しかしわたしにとって、この作品が最も面白いのはギャツビーの人柄だった。とても単純化すると、ギャツビーは好きな女のためにずるい事(密造酒の販売)をして成り上がったのだ。なんか狡猾なのにピュアなところが人間臭いというかなんというか。とにかく、わたしはギャツビーというキャラクターがとても好きなのである。

今回読んで、あらためて発見したのは、この作品がアメリカの夢だけではなくアメリカの悪夢を描いている点だ。

この作品には2回殺人事件が描かれる。
ひとつはマートルが自動車に轢き殺される場面。もう一つはギャツビーの射殺。どちらもアメリカの負の側面を象徴している。アメリカは自動車社会だから自動車事故はとても多い。銃犯罪は言わずもがなだ。

フィッツジェラルドの描く狂騒の時代(1920年代)のアメリカは自動車が庶民に普及し始めた時期で、これはアメリカの発展(明るい未来)を予感させるものだったのではないか。その中で自動車事故を描くフィッツジェラルドも凄い。
またどんな権力者も一度銃口を向けられて銃弾が放たれたらひとたまりも無い現実は銃社会の有り様を描いていると言える。

つまりこの作品は、努力して社会階層を登る男のアメリカの夢と自動車と銃という暴力の支配するアメリカの悪夢とを織り交ぜている作品なのだと、今回読んで気づいた。

ここまで⇧書いてプレビューで気づいたこと
なんでこんな風に考えたのか。死因が気になったのか。おそらくそれはわたしがタヒを意識しているからかもしれない。大学生のとき、辛い日々でも、いま頑張れば明るい未来があると信じて勉強してきた。何もかもを学問に捧げた。つまりタヒなんて考えていなかったのだと思う。いや意識しないようにしていた。それがいまタヒがわたしの現前と問題となる。最近ハイデガーを読んだのも偶然では無いのかもしれない。

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