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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 27


私の誕生日と両親の結婚記念日は、同じ五月二十一日です。結婚してちょうど一年後に生まれたのが私でした。だから母とは、「お誕生日おめでとう」「結婚記念日おめでとう」とお祝いし合っていました。

父と母は、血の繋がっていないイトコです。母の父である佐一さんと父の父である林平さんは、伊豆の牧之郷でご近所づきあいする間柄でした。林平さんの家は、父を引き取った円蔵さんと林平さんの二人兄弟で、田舎としては子どもが少ないことから、子沢山の家の末の方だった佐一さんを引き取ったのです。佐一さんは、私にとっては唯一の「おじいちゃん」で、孫には好々爺そのものでしたが、実は幼少期から始まる波乱万丈な人生を過ごした人で、素人ながら自伝的エッセイがおもしろく、居住していた静岡県伊東市のコンクールで何度か市長賞を受賞していました。

それはさておき、つまり父と母は幼い頃から知る仲で、苗字も同じ山下でした。しかも、父の妹と私の母はほぼ同い年で、なんとしたことか二人とも名前を雅子と書くのです。ただし読み方は、父の妹は「のりこ」、母は「まさこ」。もしかしたら、その名前の符号が、父と母の縁だったのかもしれません。父は、妹をとても可愛がっていたのです。

「うちのお袋が妹と同じ服を縫って、伊東に送るんだよね」とは父の遠い記憶です。伊豆半島にある伊東は、私たち世代には「電話はヨイフロ」のCMでお馴染みの「ハトヤ」がある東伊豆の温泉地。温暖で山海の美味に恵まれ、海水浴と温泉が楽しめる土地柄ゆえ、父の家族は休暇を利用してよく出かけていました。そうすると、二人の「雅子」は同じ服を着て仲良く遊びまわり、父はそんな二人を「よく見間違えていたんだよ」と笑います。そういえば、父の母の久子さんと尾崎夫人の松枝さんも、お揃いの服を着ていて、父が二人をよく見間違えていたこと、以前書きましたっけ。また、ある夏伊東に滞在したとき、「お母さんにさ(私の母のことです)トビヒを感染されたことがあって、なぜかその時に、この子と結婚するかもしれないなあと、思ったんだよ」。

父と母が再会したのは、父が高校を卒業し、東京に戻ってからでした。父は父で、母は母で、青春時代を謳歌していましたが、蒲柳の質だった母のお見合い破談がきっかけで、伊東の祖父母が、父と母をつないだようなのです。父にとってはまたとない話だったと思います。以下、父が書いた文章を引用しましょう。

話はその年に戻りますが、四月に入ったころ、独身では信用に差し障りがあると言う人がいて、急いで身を固めることにしました。お嫁さんは自分で見つけてきましたが、相手方が、仲人は尾崎先生にお願いできないだろうかと言うので、私は電話で仲人の依頼をしました。電話口に出たおじさんは、すぐ引き受けてくださいました。嫁になる人を連れて挨拶に行くべきだけれど忙しくて、と伝えると、「その必要はないよ」と言ってくれて、結局、結婚式場で仲人さんと花嫁が初めて会うといった結婚式でした。この辺のことは、おじさんの『仲人について』に詳しく書かれています。こんなふうに、私の人生の転機にはおじさんが必ず関わりを持ち、必ずと言ってもよいほど、作品を通じて私を声援してくれました。

というわけで、尾崎さんの作品『仲人について』から、引用しましょう。

極く最近、五番目の仲人をした。この文章の初めに出てくる山下林平さんの次男昌久君夫妻のを相つとめた。

この後に続く文章で、父の家族との関係や、東京大空襲で山下一家が全滅し、父一人が学童疎開で助かったこと、尾崎さんの妻・松枝さんが場合によっては山下一家と運命共同体になったかもしれない話などが綴られます。そして・・・。

その昌久君が先月(五月)中旬結婚式を挙げたとき、私共夫婦は仲人として上野精養軒まで出かけた。彼の仕事の方の協会の理事長とか、いろいろその方で偉い人たちが列席して、堂々たる披露の宴が張られたのには驚いた。余計なことながら、(これは随分かかるだろうな。費用が大変だろう)などと内心気にしたほどだ。この仲人は、昌久君が電話で頼んできたとき、直ちに承諾を与えたのだった。諸般の事情から、私が引受けるのが、彼のため一番適当だろう、と判断したからである。これは否も応もないのだ、と観念した。

諸般の事情とは、父が戦争孤児であることや、父が東京に戻って尾崎さんと再会した後の親しい付き合いなどのことなのでしょう。が、ここまで書いていて、私はふと気付いたのです。父の文章には四月に入ったころ、とあります。結婚記念日イコール結婚式を挙げた日ですので五月二十一日。これが正しければ、たった一カ月ちょっとで結婚式を決めたことになるのです。不審すぎる、と父に尋ねると、「僕も独立したばかりだし、結婚式は挙げないつもりでいたんだけど、お母さんがやっぱり式を挙げたいっていうから、大慌てで式場を予約して、小父さんたちに仲人をお願いして、親戚や仕事関係の人に招待状を出したんだよ」とは、初めて聞く話でした。

とにかく五月に式を挙げようと、あちらこちらの式場に電話をして、唯一空いていたのが、上野精養軒で、しかも朝の十時開宴のみ。伊豆の親戚のことを考えると、かなり無謀な設定でしたが、父はエイヤッと決めてしまったのです。「生バンドも入れてね。でも、ご祝儀のことなど計算に入れて、なんとか大丈夫だろうと踏んだんだ」。尾崎さんは堂々たる披露宴に少々肝を冷やしていましたが、父は父でちゃんと計算が成り立っていたのでした。

そんな感じのバタバタだったので、父が書いているように、尾崎夫妻と母は、式場で初めて顔合わせをすることになります。母の印象を「背の高い、美しい娘だった」と記しています。きっと『仲人について』が発表された時、父はその部分がうんと自慢だったのではないかと想像します。

生涯五組の仲人をした尾崎夫妻の最後が私の父母でした。では最初は、といえば、戦前、上野櫻木町時代に、父の両親が姪っ子のおきょうちゃんを尾崎さんの後輩の嫁に、と頼み込み、その流れで仲人を引き受けざるを得なくなった、と『仲人について』の中でおもしろおかしく書いています。そんなこともあったから、きっと父から仲人を頼まれた時、尾崎さんは(不思議な縁だ)と感じたに違いありません。

ところで両親の結婚披露宴の写真の中に、ウエディングケーキ入刀のシーンがありました。へえ、もうこの頃から? と思ってちょっと調べてみたら、西洋スタイルのこの儀式は明治時代に入ってきたものの定着せず、一般に広がるきっかけは、石原裕次郎の結婚式だったとか。時は一九六〇年十二月二日、日活国際会館にて。ちなみに、うちの両親の結婚披露宴は、一九六〇年五月二十一日です。おお、裕次郎に先駆けて! 「精養軒から勧められたと思うんだけど、自分も流行りを先取りするのが好きだったんだな」。もちろん、九段重ねの一メートルという裕次郎&まき子の大きなケーキにははるかに及びませんけれど、なかなかモダンな結婚披露宴だったのでしょう。

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 すっかり間が空いてしまいましたが、本日、三月三日は母の命日。亡くなって四年になります。抜けるような青空の日でした。

では今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!

※トップの写真は、両親の結婚式の記念撮影。最後の写真は、裕次郎より早く取り入れた(笑)ケーキ入刀。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。