父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと18
父がぼそりと呟きました。「三月がやっと終わるな」。父にとって三月は辛い月です。家族を失った東京大空襲とともに、尾崎一雄さんが亡くなった月で、三年前には、父の妻、つまり私と妹の母の死が加わりました。
昭和五十八年(一九八三)三月三十一日に尾崎さんは逝去しました。八十三歳という享年は、大病をした尾崎さんとしては上出来だったでしょう。けれど、当日まで仕事をしていたそうですから、周囲の人たちにとっては急なことでした。私は葉山の友人宅に泊まりで遊びに行っていました。朝ごはんの時、ニュースで尾崎さんの訃報が流れ「父に電話しなくちゃ」と慌てたことを憶えています。
三月十日が近づくと、にわかに東京大空襲のニュースが増えます。今年もそうでした。その筆舌に尽くしがたい悲劇は、映画、ドラマ、書籍になり、児童文学になり、絵本になり、忘れてはいけない記憶として七十四年が過ぎた今もなお語り継がれています。そんなことで、前回から少し話を巻き戻します。
私は、東京大空襲で家族を失った父ではあるけれど、空襲を目の当たりにしていないことは不幸中の幸いではないかと思っていました。確かに父は空襲の火の粉は経験していません。が、実は疎開先で戦闘機の銃撃を目の当たりにしたということを最近知りました。それはまだ、円蔵さんに引き取られる以前、伊豆半島西海岸にある宇久須村で過ごしていた時のことでした。
「P公って呼ばれていた戦闘機、P51が海岸に向かって一機、飛来して、いきなり銃撃をしたんだよ」
バリバリと物凄い音で玉が浜辺を穿ちます。父は大きな松の木の影で身を潜めて難を逃れましたが、係留されていた船で釣りをしていた釣り名人の子供は逃げ遅れてしまい、そのまま帰らぬ人となりました。パイロットは戦闘機の窓から身を乗り出し、それを確認していたといいます。「まるでゲームをしているみたいな感じでね、人を人とも思ってないんだよ。恐ろしかった」
また、浜辺からは沼津や静岡の空襲が見えたそうです。ただならぬ気配を感じて外に出てきた村の人々は、赤々と燃える彼方の夜景を黙って見つめていました。恐ろしく美しい花火のような炎をただじっと。魔の沈黙でした。
静岡県中央図書館 歴史文化情報センターの資料には、「1945(昭和二十)年四月以降軍需工場を目標に本格化した空襲は、浜松市を中 心に大きな被害を与えた。東京・大阪など大都市空襲を終えた六月、地方中都 市に対する無差別爆撃が開始された。浜松市(六月十八日)、静岡市(六月二十日)、 清水市(七月七日)、沼津市(七月十七日)の市街地が相次いで一夜にして焼け野原となった。七月二十九日夜、浜松市と新居町が艦砲射撃を受け、三十一日には清水市も襲撃された。海からの攻撃も始まったのである。」とあります。
終戦間近まで、たくさんの、たくさんの空襲が、罪なき人々を襲いました。その最たるものが、広島、長崎の原爆投下です。それでも一般の人たちは日本が敗戦するなどとは考えていませんでした。「修善寺に移ってからのことだけど、近所に面白いおじさんがいたんだ。山から松の根を掘ってきて松根油というものをつくってたんだけどね」
松根油は、戦闘機の潤滑油にするためのもので、そのおじさんのところには、勤労奉仕の中学生が手伝いにやってきます。すると、道端で円陣になり、子どもたちに向かって「日本はもうダメだ、敗戦だ」と、周りの人にも聞こえるような声で話すのです。松根油などを戦争に使うようになっちゃあおしまい、と油を絞りながらも感じていたのでしょう。大人たちは「そのうち特高警察がやってくる」とおじさんを警戒していましたが、結局そんなこともないままに終戦になりました。
「とにかく、年中空襲警報だったよ。宇久須村の時は南から爆撃があるので山の北斜面に避難したよ。修善寺は、そのまま家に帰れ。テスト中でも半鐘が鳴って、試験用紙はそのままにして帰宅しなさい、ってね。そのまま学校に戻らないで、川に泳ぎに行ったこともあるよ」
度重なる空襲警報に、子どもたちの恐怖心も麻痺してしまっていたのでしょう。父は身寄りのない悲しい孤児ではありましたが、終戦前には、父の事情を知っている軍人さんから「しっかり学んで家を再興しなさい」と励まされ、父も「はいっ」と敬礼したといいます。子どもたちは皆、軍国少年。教育の恐ろしさです。
一方、尾崎一雄さんとその家族はどんな戦後を過ごしていたのでしょう。人探し小説(父の消息を尋ねるため)として父の家族の悲劇を題材とした『山下一家』を書いたのちのことに触れてみます。
尾崎さんの病はまだまだ予断を許さぬ状況でした。当時のことを綴った文章からもそれは伝わってきます。それでも生活のために筆をもち、文字を綴らなければなりません。尾崎家の家計はそれのみで支えられていたからです。けれど、作家とはそんな経済的な理由だけで書く職業ではないようです。
「ところで、書かねばくらしが立たぬから書く、と言へば、極めてはつきりしてゐて、他人の忠告を拒否するに都合が良いが、私どもには、時々どうしても書きたくなるくせがあるので、生活のためだ、とばかりタンカを切れぬ節がある。その点がつらい。作家生理とでもいふか、どうもそこを他人にのぞかれると、はづかしがらざるを得ぬ面がある。だれかがニヤニヤしてゐそうで、私など、いつも、てれながら仕事をしてゐる方である。さうでない人もあるかも知れないが」『わが生活 わが文学』(池田書店)
一日の大半を横になって過ごす状態が続く中、できることは「本を読むこと。何か考へること」しかない尾崎さんは、「病臥して三年足らずの間にいろいろ読んだが、文学関係のものは尠なかつた。一流の作品中、長いために取つつきにくかつたもの、例へば『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』『ジャン・クリストフ』などを五十歳近くなつて初めて読んだ。(中略)その時分の私は、文学作品の面白さよりも、思想書(主として仏教書)や科学書に一層強く惹かれてゐた。そういう本の方が、私の当面する問題に関してより多く応へてくれるからであつた」『続あの日この日』(講談社)
こうした状況の中で生まれたのが、尾崎さんの代表作の一つである『虫のいろいろ』でした。これは心境小説と呼ばれ、たわいない日常を描きながら、作者の心を映し出したもので、尾崎さんのデビュー作である『二月の蜜蜂』、美しく研ぎ澄まされた文体の、志賀直哉の影響をたっぷり受けながらもすでに才能の萌芽が冴え冴えと伝わる、あの作品から時を経て生まれた名作で、そこには天文書から示唆を受けた「極大の世界、極微の世界を覗くことによつて、自分もまた極大であり且つ極微である」という境地が、虫たちの生態と重ねて描かれています。
昭和二十二年(一九四七)に『新潮』編集部からせっつかれて書いた作品で、夫人の松枝さんには「病人小説」と評される始末でしたが、五年後には日本近代文学の英訳第一号としてアメリカで発表されることになります。
「高校生の時、そのニュースをラジオで聞いてね。おじさん元気で頑張ってるな、と思ったんだ」と父はいいます。でも、まだその頃は、尾崎さんと再会できる未来など、全く予想もしていませんでした。
それでは今回も、尾崎松枝さんの名セリフでお別れです。
三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!
※トップの写真は、一九八八年にイギリスで発刊された尾崎さんの短編十作品を収録したアンソロジー。表題の作品は『痩せた雄鶏』だが、この中に『虫のいろいろ』も収録されている。簡潔な英訳からは、尾崎作品への深い理解が感じられる。