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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 26

現代に生きる私たちにとって、お金はなくてはならないものです。このお金は、時に人を助け、時に人を破滅もさせます。作家の尾崎一雄さんは、若い頃に父親の遺産を使い果たし、また、作家として目処がつくまでは極貧の結婚生活をしていた人です。が、その貧しさを楽しんだのが、妻の松枝さんで、そんな松枝さんとの生活から生まれた短編作品『芳兵衛物語』や『暢気眼鏡』は、尾崎文学の代表作となり、映画やTVドラマにもなりました。お金の苦労を人一倍した尾崎さんのお金に対する作法は、とてもとてもきれいなものでした。人を生かす使い方をためらわずにします。父はそうした尾崎さんのお金の作法にどれほど助けられたことでしょう。

父が尾崎さんの一年祭(神道の一周忌)で朗読した「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」(一九八四年の神静民報〈地元の新聞〉に掲載)から、尾崎さんに助けられたお金についての逸話を引用します。これは少し長い文章です。

昭和三十五(一九六◯)年の正月に下曽我へ行った時、おじさんに、独立して仕事をしたいのですが、と相談を持ちかけました。その時おじさんは、「君がその気ならばやり給え」とだけ言いました。その月の二十五日に勤め先を円満退社いたしました。
独立の報告に行くと、お祝いだと言って、一万円を包んでくださいました。当時、並みのサラリーマンの給料に当たる額でした。

二月になって、いざ仕事を始めてみると、当初の計画通りに行かず、資金が足りなくなりました。なりふり構わず、三カ所に速達で手紙を出して借金の申し入れをしました。速達を出した翌々日、おじさんからウナ電(至急電報)が届きました。「明日の三時に新橋駅の小川軒に来るように」と書いてありました。

翌日三時、新橋駅前のレストラン、小川軒に行くと、おじさんが待っていて、やがて作家の富田常雄先生がみえました。おじさんが、手はずを整えてくれていたのです。富田先生については、もっと別の説明がいるのですが、とにかくおじさんに言わせると、私にいくらかの資金援助をしてもおかしくない立場の人ということで、私に引き合わせてくれたのです。そして、私の見ている前で、後にも先にも見せたことのない姿勢で、「この子に資金を貸してやってくれないか」と頼んでくれたのです。もちろん、富田先生はご快諾くださいました。おじさんはさらに、「もしこの子が返済できなかったら、私が返済します」とまで言ってくれたのでした。

富田先生が帰られたあと、おじさんは「君、お腹がすいただろう」とカレーライスをとってくれました。ラジオが、皇太子の第一王子は浩宮と御命名された、と報じていました。おじさんは、急ににこにこして、「一枝(長女)の子どもも浩というのだ。どうだ先見の明があるだろう」とうれしそうに話すのでした。
その後、新橋の駅に行きました。「おじさん、これからどこへ?」と尋ねたところ、「今日は君の用事だけで、下曽我から真っすぐここに来たんだ。すぐ帰る」とのこと、私はびっくりしてしまいました。

ホームまで見送ろうとする私を制して、おじさんは階段を上っていきました。その後ろ姿を、私はいつまでも見送りました。見えなくなったら目頭が熱くなり、涙がとめどなく流れました。親爺、いや、それ以上のものをそこで見た思いでした。

富田常雄さんが父に幾らかの資金援助をしてもおかしくない立場、である理由を少し説明しましょう。以前にも書きましたが、私の祖父、つまり父の父である山下林平さんは、伊豆の農家の次男坊で、財産はいらないから学問をさせてほしいと、日本大学理学部機械科に進学します。学生時代は、同郷の縁もあり、嘉納治五郎が創設した講道館の最初の門弟である富田常次郎の書生となります。この富田常次郎の息子が小説『姿三四郎』で流行作家となる富田常雄さんでした。富田さんは若き日に父親と不仲になり家を飛び出しすのですが、その際に林平さんがあれこれと生活を支えたのだそうです。また、富田さんは、障がいのあったお姉さんのことが心配で、それを知った林平さんが、時折上野桜木町の山下の家にお姉さんを呼んで、そこで二人を引き合わせてもいました。そんな時、お向かいの尾崎家の二階から、尾崎さんは文士仲間の富田さんの姿を認めて、「よお」と挨拶をしていました。尾崎さんはそのあたりのことを覚えていたのです。

「この子の父親は鹿島組で鉄筋コンクリートと呼ばれた男です。それほどは堅くないけれど、間違いない男だから」と父を富田さんに紹介します。すると富田さんは、「わかりました。明日、阿佐ヶ谷の自宅にいらしてください」と請け負ってくれたのでした。富田さんが帰った後には、「阿佐ヶ谷の家を訪ねるときには、文明堂のカステラの桐箱入りを手土産にしなさい」と指南もしてくれました。
「おじさんと再会した時に、僕の仕事の話をしたら『じゃあ将来は独立だな』と言っていたんだよ。だからなのかな、とても親身に考えてくれたよね」と父は回想します。「僕は最初、独立なんて全然考えてなかったけれど、おじさんに道筋をつけてもらった感じだね」。のちに松枝さんから、「『まアちゃんが独立する時には、富田に援助するようにと話してあるんだ』と一雄が言ってたわよ」と教えられたそうです。

父は、袋物製造業に入って以来、思いがけずその世界で才能を発揮していました。ザルや籠、筵を作るのが当たり前だった農村暮らしの七年が、ハンドバッグのデザインに生かされたようなのです。しかも、目はしがきいて、知恵もある。大変だった生活から解放された嬉しさもあいまって、父は伸び伸びと仕事をしていたに違いありません。そんな父の背中を押したのが尾崎さんだったのです。続きがあります。

小川軒で別れて一カ月ほどして、下曽我へ仕事の息抜きに遊びに行きました。ちょうど圭子ちゃんが早稲田大学に合格した時で、一緒に大いに喜びました。
おじさんに「今夜は君、うちに泊まっていきなさい、明朝僕と圭子も東京へ行く、君も一緒に行こう」と言われ、その日は尾崎家のお世話になりました。
翌朝三人は、おばさんに見送られて下曽我の駅に向かいました。途中、駅の近くまで来ると、おじさんは二人を待たせて銀行に入っていきました。しばらくして戻ってきたおじさんの手には、お札の入った白い封筒がありました。
おじさんはその封筒を、私の手に押しつけました。戸惑っている私に「これは今の君にとっていくらあっても邪魔にならないものだ。持っていきなさい。それから、車の運転だけは十分に気をつけなさい」と励ますように言うのでした。
中には十万円入っていました。(約六十年前の十万円)借用書をと申しますと要らないとのこと。私はおし戴きました。そのお金は、それから十何年も経ってから、おじさんの書いたものによって、丹羽先生からお借りしたものであるのが判り、涙にむせんだものでした。
二年ほど経って、仕事も軌道に乗り、お正月にそのお金を返しに行きました。おじさんは、私が見計らって足した利息分ははずして、元金だけ受け取られました。

丹羽さんとは、作家の丹羽文雄さんです。丹羽さんは、尾崎さんの無二の親友。戦争中、上野桜木町の家で尾崎さんが重度の胃潰瘍で吐血をしたとき、尾崎さんが心の頼みとしたのも丹羽さんでした。二人は早稲田第一高等学院の学友であり、丹羽さんに志賀直哉を教え、文学の道に誘ったのも尾崎さんでした。丹羽さんは才能がありながら家業に入って筆を折るのですが、尾崎さんはそんな丹羽さんの才を惜しみ、文学の世界に連れ戻したのです。言ってみれば、尾崎一雄無くして、丹羽文雄文学は存在し得なかったことを、尾崎さんは重々承知で、丹羽さんもまた尾崎さんに感謝しきれぬ思いを抱いていました。そんな二人の関係があり、また、当時流行作家として羽振りがよかった丹羽さんにならば、借金を申し込んでも良いと尾崎さんは判断したのでしょう。

当時の尾崎さんは、三人の子どもたちの大学進学もあり、父を経済的に援助する余力などなかったはずです。が、なんとかして助けようと、文士の流儀を発動し、困ったときはお互い様のお金や人脈のやりとりを、父にまで広げてくれたのです。「親戚が誰も手を差し伸べてくれなかったのに、おじさんはすぐに連絡をくれたんだよ。どうしてそんなことができたのか、今も信じられない気持ちだよ」と父は言います。

次回は、尾崎一雄さん、松枝さん夫妻が両親の仲人を引き受けてくれた話を書こうと思います。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

 三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!

※トップの写真は、神奈川県の下曽我にある宗我神社の大鳥居付近に建てられた尾崎一雄文学碑。作品「虫のいろいろ」より、住まいから見える富士の姿を描いた一文が刻まれている。

尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。