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忘れられない言葉

私の通っていた大学はカトリック系だったので、4年間キリスト教に関する授業を受けた。現役神父や学長、現役修道士など講師は様々でキリスト教徒ではない私でも楽しく学べたことをよく覚えている。
そんな私にとって忘れられない言葉とは、大学時代に受けた学長自ら行うキリスト教の授業で教えられた新約聖書の一説である。

求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。
全て求める者は得、探す物は見出し、門をたたく者は開けてもらえるからである。
(ルカによる福音書 11章)

学生の時の私は、この言葉を知って大学での学びにより一生懸命になった。
大学でできることは全てチャレンジし、大学の助成を受けながら3年間ダブルスクールもやった。知識を求め、できることを探し、いろんな場所の門を叩きまくった結果、新しい自分の側面を知ることができた。イエス・キリストが弟子たちに言ったと言われている言葉は、本当に人生にとって意味のあるものと感じた瞬間だった。

そんな成功体験をした私は、社会に出ても同じマインドでいけば何とかなると思っていた。今思えばちょっと幼かったと思う。
求めた居場所(職場)は見つからず、探していた自分のキャリアデザインは見つかるどころか校長の押し付け、教育委員会やいろんな繋がりの先輩の門を叩いても門前払い。
きっと求める物も探している物も門を叩くべきところも違うのかもしれない。
教員という仕事、学校という組織に”諦め”にも近い感情が湧いてきている今日この頃である。

人を育てるということが最も大変で最も大切であることは、社会を見ていれば明らかである。それは、高齢者を支えるスタッフ要員としてではなく、社会を豊かにするためにである。ただ、みんな余裕がない。それは精神的にも金銭的にも。その矛先は全て学校や教員に来る。矢面に立たされるのは教員で、私も含め経験年数の少ない教員たちが非難に晒される。
そんな世界線でいいのだろうか。偉そうに教育論を言いたいわけではない。
ただ、教員の世界は戦場であり、大した装備のないまま前線に送られる青年兵であるということ、国や社会はそうした教員の実態にしっかりと目を向けてほしいと切に願っている。

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