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サマスペ! 九州縦断徒歩合宿(7)

  杉の木の香りがひときわ強くなる。丸太が高く積み上がっている材木店の横に電話ボックスがあった。涼がへたり込んでいた所にあったのと同じだ。
 悠介は今朝のことを由里がどう思っているのかずっと気になっていた。

「由里さん、涼のことはよく知っていたんですか」
「新人歓迎のイベントの時に挨拶したくらいかな」

 五月に催されたウォーキングイベントは和気藹々としたハイキングだった。
「可哀想に、涼君。たった一日じゃ何もわからないのに」
 由里が小声で言う。やはり由里も涼を引き留めたかったのか。悠介は暗澹たる気分になる。自分の理解者はどこにもいない。

 いや、たった一人由里だけが理解してくれればよかったのだ。自分が涼を見逃したことがこれほどの波紋を呼ぶとはまったく思っていなかった。

「私は涼君のために何もできなかった。私が最初に見つけていたら説得して思いとどまらせていたのに」

 水戸に諭されても、斉藤と殴り合っても、悠介は露ほども反省しなかったが、由里に言われると自分が悪いような気持ちになる。

「やっぱり俺、引き留めないといけなかったんでしょうか」
 悠介があの母親に逆らって涼を止めることができたかは疑問だが、涼が車に乗れないようにしがみついてしまえば、鳥山や由里が追いついてなんとかしたのかもしれない。

 由里は悠介の質問には答えなかった。
「サマスペは新人が一番大変なの。初めてなんだから当然よね。悠介君も身に染みていると思うけど」
「正直、続けられる自信がありません」
「それでいいの。経験したことのない大変さの先にしか見つけられないものがあるんだから。この合宿はそういうものなの。逃げ出したくなるくらいじゃないと意味がないのよ。でもね……」

 由里の横顔を見た悠介はどきりとした。口を尖らせていた。怒っている。感情を露わにした由里を初めてみた。

「本当に逃げちゃ駄目なのよ。それじゃ何も涼君はつかめない」
「俺たちはもう大人ですよ。自己責任です。自分の意志で逃げたんだから他人が気に病むことはありません」

 由里は俺をちらりと見て「他人?」と呟く。
「違う。私は涼君の先輩だよ」

「それに悠介君は大人なの? 私は自分が大人だなんて思えない。未熟で弱くて……全然だよ」
 由里は歩きながら俺を見つめた。
「このサマスペは、新人を突き放して経験したことのない厳しさを実感させるの。少なくとも最初はね。だけど、逃げ出すまで追い詰めちゃいけないんだよ。もっと様子に気を配るべきだった」

「こんな滅茶苦茶な旅なんだから、逃げるのは仕方がないですって。由里さんが責任を感じる必要なんか――」
「二日目に脱走させてしまった。なんて情けない先輩なんだろう」
 悠介は愕然とした。由里は涙ぐんでいた。

 斉藤の平手打ちより、メンバーの冷たい視線より、その百倍も悠介はこたえた。つれなくされるのならまだしも、悠介のせいで由里が自分を責めて泣くなんて。

 由里はそれきり喋るのを止めた。無表情に戻って歩く。悠介は言うべき言葉が見つからない。足が重いのは背負った鉄釜のせいだけではなかった。

 由里のことを知りたい、親しくなりたい。その一心で参加したサマスペだったのに、その由里を傷つけてしまった。由里は自分を責めて、涙まで流したのだ。

 隣を歩いている由里と、つんつん姫と呼ばれる由里、そしてあの日のコンビニの由里。どの由里が本物なのだろう。

 とにかく由里がサマスペを大切に思っていることは確かだ。それだけの何かがサマスペにはあるのかもしれない。しかしサマスペは……悠介にとって最悪のイベントだ。

 体力的なことだけじゃない。サマスペは、由里が逃げた後輩を思って泣くほど、メンバー同志の強い関係性を求める。それが悠介にはあまりにも重く、危険すぎた。

 前を行く大梅田は四つ角で立ち止まり、折りたたんだ地図を取り出す。由里が足を速めながら悠介を見る。
「悠介君、今日は食当の仕事をまっとうすること、いいわね」
 悠介は無言で頷いた。

「気持ちを切り替えてよ。足は休ませられるけど、食当の仕事だって大変だからね」
「はい」

 由里はなぜサマスペのことになると、これほどむきになるのだろう。ほかの先輩たちもだ。なぜこんな疲れるだけの旅に真剣になるのだろう。

「そろそろのはずなんだがな」
 大梅田が見ているのは大分県の詳細地図だ。そこかしこにマークがされて何か書き込まれていた。悠介は大梅田に尋ねた。
「幹事長、いきなり行って泊まれるもんですか」
「泊まらせてもらうまで頼むんだ。泊まれないと野宿になってしまうからな。食事も作れない」

 野宿。食事も作れない。宿とメシを求めて歩き続けている者たちには、とても聞かせられない言葉だ。
「それじゃ食当の責任、重大ですね」
 由里がふふっと笑う。
「大丈夫。いざとなれば幹事長は交渉が上手だから」

 このむすっとしたマウンテンゴリラに、人にものを頼むなんてことが可能なのだろうか。もしや脅すのか。

「あの白い建物かな。悠介、ちょっと見てきてくれ」
 大梅田が指さした建物に走ると、小児科医院の看板が出ていた。
「違いました。それとその先は車の整備工場で――」

 由里が手を上げた。
「こっち。コミュニティセンターって書いてある」
 小児科医院の手前を曲がったところに、古民家を改装したような建物があった。

「それじゃ悠介、泊めてもらえるようにお願いしてこい」
「えっ、俺がですか」

 幹事長が交渉するんじゃないのか。頭が真っ白になる。よりによって由里が見ているのに。

「無茶ぶりしないでくださいよ。俺、そういう交渉とかしたことないですって」
「おお、誰か出てくるぞ」
 公民館の引き戸が開いた。顔を出したのは、おばあさんだ。

「ちょうどいい、ほら行け」
 手のひらに汗がにじみ出る。
「マジですか……なんて言えばいいんですか」

 おばあさんたちは四人連れだった。みんな杖をついているが元気に見える。最後に出てきたおばあさんが引き戸に鍵をかけている。

「おっと、閉められちまうぞ」
 由里が「幹事長、今日のところは」と言う。
「しょうがない。今回は見ていろ」
 大梅田が走り出して、悠介は胸をなで下ろした。

「こんにちは、おばさん」
 明るい無邪気な声。しかもおばさんときた。
「あらあら、どちら様」

 顔を向けたおばあさんは、顔の半分もあるオレンジ色のサングラスをかけていた。
「僕ら、大学生なんです。東京から歩いてきました」
 大梅田が両腕を前後に振って足踏みしてみせる。
「えっ、東京から歩いて」
 おばあさんがサングラスを上げて大梅田を見る。
「あっ、間違えた。博多までは新幹線でした。でも太宰府から歩いてきたんですよお」
「なんだ、そうよね」

「えっ、でもそれだってすごいじゃない」
 派手な花柄シャツを着たおばあさんが口に手を当てた。
「このまま鹿児島まで行くんです。歩いて九州縦断です」
「あらやだ、ほんとなの」

 おばあさんたちは、かしましく騒ぎ始めた。つかみはOKだ。宿を頼むときの、サマスペお約束トークなのかもしれない。
「あの、この公民館を管理されている方ですか」
「違うわよ。あたしたちはマージャンしてたの」
「ここ、電動の雀卓があるのよ」
 花柄シャツの両手が、パイをかき混ぜる仕草をする。
「ぼけ対策でね」
 サングラスのおばあさんがつけ加える。

「やだ、みえちゃん。頭のトレーニングでしょう」
 そろって笑い出す。
「みなさん、まだお若いじゃないですかあ」
 ゴリラが身体をくねらせる。信じられない光景だ。

「そうかしら、ありがと」
「それであなた、ここに何か用事があるの」
 みえちゃんと呼ばれたおばあさんが、首をかしげた。雰囲気からしてどうやらリーダー格らしい。

「あの、僕らお金を使わずに旅行してまして、毎日お寺や公民館をお借りして泊めていただいてるんです。昨日は久留米のお寺でした」
「へえ、このご時世に偉いわねえ。うちの能天気な孫に、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ」
 ほかの三人がけたたましく笑う。

「とんでもありません。あの、それで今日の宿に、こちらをお借りできないかと」
「ああ、なるほどね」
 花柄シャツのおばあさんが手を打った。
「あなたたち、三人?」
「いえ、全部で十二人なんです。今、日田往還をここに向かって歩いているはずです」
「こんなに暑い中をねえ。日差しだって強いのに」

 後ろで聞いていたおばあさんが杖を空に向けたと思ったら、一瞬でピンクの傘になった。
「おお、すごい。日傘ですか。便利ですねえ」
 大梅田が大げさに驚いてみせると、ほかの三人も次々に杖を傘に変身させる。赤に黄色に緑。九州の青い空に色とりどりの渦巻き模様が映える。ミュージカルでも始まりそうだ。

「すごいなあ。みなさん、おしゃれです」
 大梅田が手をたたいた。四人は得意そうな顔をする。
「ところでお金を使わないって言ったけど、ご飯はどうするの」
「近くで食材を買って自炊です。この鍋とあの釜で」
 大梅田が背中の鍋を叩いてから悠介を指さした。慌てておじぎをして背中を見せる。こちらを向いた大梅田の目尻を下げた笑顔にびっくりした。あんな顔ができるんだ。

「ご苦労ねえ」
 四人が声をそろえて日傘をくるくる回す。目が回りそうだ。ピンク傘のおばあさんが公民館を指さす。
「それならここ、おあつらえ向きよ。厨房があるもの」
「えっ、ほんとですか」と大梅田が嬉しそうな声を上げた。
 悠介の隣で由里が「やった」と呟く。「厨房付き物件はそうそうないのよ」

「オヤジの料理教室っていうのを時々やってるから」
「素晴らしいです。ああ、なんとか一晩、貸していただけないでしょうか」
 大梅田が四人に両手を合わせてみせる。

 頑張れ、幹事長、もう一息だ。

「怪しい集団ってことはないわよねえ」
 光る後頭部が激しく左右に振られる。
「そんな、滅相もないです。真面目な学生のサークル活動なんですよお」
「いいじゃない、みえちゃん。こんな田舎の公民館、盗られるものなんか何もないしさ」
「金目のものは雀卓くらいかねえ」

 花柄シャツとピンク傘のおばあさんが漫才のような掛け合いをして、また笑い声が響く。みえちゃんがサングラスに手をやる。
「でもあたしたちに言われてもね。ここは近くのスーパーの社長が鍵を管理してるのよ。あたしもこれから返しに行くところなの」
 鍵を大梅田に見せた。

「社長さん、怖い人ですか」
 おずおずと尋ねる。
「おやおや、おっきな身体の割に気が小さいのねえ。怖くはないわよ。社長って言ったって、酒屋に毛の生えたような店のおやじなんだから」
「でもあの社長、あたしには規約がどうのって顔に似合わずうるさいこと言うよ」
 花柄シャツおばあさんが眉をひそめる。

「僕ら、今日の食事の材料、そこのスーパーで買わせてもらいます」
「売り上げに貢献するってわけね。それは社長、喜ぶと思うけど」
 みえちゃんがあごに指を当てる。その肩にピンク傘のおばあさんが手を置いた。
「一緒に行ってあげなよ。みえちゃんが言えば断れないからさ」

 みえちゃんは緑の日傘をくるくる回す。
「そうね。じゃああたしが頼んであげようか」
 大梅田が「お願いしますう」とまた手を合わせた。
 さすが幹事長。悠介は心の中で拍手を送った。

「大型のガスコンロがあるじゃないか。運がいいぞ」
 公民館の厨房で大梅田はいつもの難しい顔に戻っている。さっきのは営業用スマイルなのだ。

「これなら火加減の心配はないですね。一度に作れそう」
 由里が火をつけて頷いている。悠介はスーパーで買った十二名、三食分の食材が入ったリュックを下ろすのに四苦八苦していた。肩ベルトが思い切り食い込んでいる。

「幹事長、今日のメニュー、鮭のシチューでよかったですか」
「もちろんだ。昨日のカレーとかぶらなけりゃなんでもいい。それより鮭なんてサマスペじゃ食べたことないぞ。予算は足りたのか」

 大梅田がみえちゃんに伴われて、スーパーの事務室で社長に交渉している間、悠介と由里は店でお買い物タイムだった。とは言っても、悠介はスーパーに入ったことはほとんどなく買い方すらわからないから、由里の隣で言われるままに食当用の電卓をたたくだけだった。

 由里がファスナー付きの透明の袋を出した。水戸から渡された食当用の財布だ。食当は食材購入用と、移動に使う交通費用の二つの袋を渡される。由里は中に入ったレシートに目をやる。

「買ったものですけど、お米が大分産ひのひかりを五キロ、それに鮭の切り身十二枚」
 悠介は由里が読みあげるのに合わせて、調理テーブルに五キロの米と鮭の入ったビニール袋を置いて見せた。

「そしてニンジン、ジャガイモ、玉ネギ、シチューのルー。野菜は明日のお味噌汁にも使います。朝食用に生卵十二個、昼食にはタクアンをつけます」
 テーブルにずらりと食材が並ぶ。由里は袋を大梅田に振ってみせた。一円玉が二枚。

「食費三千九百円のところ、しめて三千八百九十八円です」
「おお、残り二円か。それはグッドジョブだ」
 大梅田が親指を立ててみせると由里がにこやかに笑った。

 無愛想に見えても誉められると嬉しいようだ。店内で由里は、値札を吟味しながら少しでも安い食材の組み合わせを選んで回った。やりくり上手そうな由里の後ろで悠介はカートを押した。

「それじゃ料理の支度。始めます」
「よし、俺は米を炊こう」
 大梅田が釜をシンクに置いた。計量カップを取り出して、米のパックの封をはさみで切る。手慣れている。

「悠介君、料理をしたことあるの」
「インスタントラーメンは作れますけど」
「あれは料理じゃないから。じゃあ野菜を洗って」
「はい」

 テーブルに載せた野菜を洗い、由里の指示で玉ネギの茶色い皮を剥がし、ピーラーというものでニンジンの赤い皮をむいたところで、大梅田に声を掛けられた。
「悠介、そろそろ立ちんぼに行ってくれ」
 壁の時計はもうすぐ四時を指そうとしている。

「そうでした。国道に行けばいいですね」
「外に出て地図を確認しよう。この公民館まで迷わないように指示をしてもらわないといかんからな」

 大梅田と公民館の外に出て、階段の手すりに同好会の旗をガムテープで貼った。その前のコンクリートの地面にあぐらをかいて、大梅田が拡げた地図を見る。

「午後のスタートで指示をした交差点はここだ。ここを目印に旗持ちが歩いてくる」
 大梅田が指を置く。ピンクのマーカーがしてある。
「旗持ちはライトですね。ちゃんと歩いてるかな」
「伴走は斉藤だから大丈夫だろう」
 ライトに同情したくなった。教育担当にさぞかし追い立てられていることだろう。

「交差点からこの公民館への道だが、いいか。右手に神社があったらそこを左折する。JAを通り過ぎて進む。交差点から歩いて七~八分と伝えればいい。それと念のためにこの地図が正しいかどうか、歩きながら確かめてくれ」
「わかりました。行ってきます」

 国道に向かおうとすると「ああ、悠介」と大梅田が手を上げた。
「今朝のことだがな」
 さっと血が引いた。涼を見逃したことだ。二年生の斉藤や由里でさえ、脱走させてしまったことをあれだけ問題視しているのだ。幹事長が黙っているわけはない。
 鉄拳制裁か。由里がいる間は暴力はまずいと思っていたのだろう。舌先で口の中の傷を触った。

「涼と一緒に逃げようとは思わなかったのか」
いかつい幹事長の顔を見て「はい」と答えた。半分は嘘だけど、半分は嘘じゃない。親の車でなければ悠介は乗っていたかもしれない。

 ただ、涼に「悠介も乗るか」と言われた時、ふいにカレーを食べながら笑うみんなの顔が頭に浮かんだ。気がついた時には車は走り去っていた。

「残ってくれてありがとうな」
 不意打ちのような言葉に悠介の目が熱くなる。
「それじゃ立ちんぼ、頼むぞ」

 大梅田に頭を下げて国道に向かって駆け出した。これは泣かせるためにつくられた映画やドラマじゃない。現実のことだ。
「ありがとう」と言われて感動したことなど、あっただろうか。     
 
――――サマスペ二日目 久留米市~日田市 歩行距離四十二キロ

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