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サマスペ! 九州縦断徒歩合宿(3)

「よし、悠介、休憩しよう」
 アッコの声が神のお告げに聞こえた。
「ほら、ゆめタウンが見えたろ。もう筑紫野市に入ったよ」

 左手に巨大なショッピングセンターが見える。ピンクの看板に『you me』と書かれている。あれで『ゆめ』と読ませるのかと、ぼんやり思った。足を止めてアッコと由里を振り返る。何か言おうとしたが言葉が出てこない。

「情けないな、このくらいで」
 アッコが笑う。悠介は両手を膝について喘いだ。腕に巻いたチープカシオの針は二時を指している。由里は平然としていた。三十分以上走ったのに疲れていないのだろうか。慣れた様子でリュックのサイドポケットから、ソフトボトルを抜いて水を飲み始めた。白い喉に見とれそうになって目を逸らした。

 アッコが後ろを向いて爪先立ちになる。
「あれ、うちのメンバーだよね」
 陽炎の中を歩く何者かが辛うじて見える。
「誰でもいいです」
 リュックを下ろしてトップのファスナーを開けた。手が震えそうだ。

「頭の上まである、どでかいリュックは二村だな。何が入ってるんだろ」
「南極にでも行くつもりじゃないですか」
 適当に答えた悠介は、ようやく二リットル入りのペットボトルを引っ張り出した。
「まあ第二集団につけているわけだからいいけどね」

 歩道にだらしなく座り込み、ボトルに直接口を付けてがぶ飲みする。ただの水なのに何て美味いんだろう。

「さてと、悠介。こっからは歩くよ。このくらい散らばればいい」
「散らばればって?」
「先頭がぐずぐずしていたら先に進まないからね。スタートは思い切り走って、先頭から最後尾まで十分な距離をつくる。そして常にこの旗が全体のペースメーカーになるんだ」

 悠介は一息ついてボトルを下ろし、極めて重要な質問を口にした。
「旗持ちって、もちろん交代でやるんですよね」
「そうだよ。一年が順番にやる決まりなんだ。毎回、梅さんが……ああ幹事長が指名するんだけどね」
 安堵して、またボトルを持ち上げた。いくら飲んでも足りない。

「旗持ちが先に行かないと危ないんだよ。ここはまだ市街地だから広くて整備されているけどさ」
「九州に片側三車線があるなんて知りませんでした」
「福岡は車社会だからね。地方都市には珍しくない。でもね、この先、山に入ったら車は怖いよ」
 アッコが白いガードレールを足で蹴った。
「ガードレールがない道も多いし、歩行者なんかいないと思って飛ばしてるからね。団子状態で広がって歩いてたら――」
「もれなく撥ねられるってことですか」
「その通り」
「そういうことなら最初に教えといてくださいよ」
「説明ミーティングに来ない悠介がいけないんだって」
「集合場所とか、持ち物リストってのはラインで見ましたけど」
「当たり前でしょ。そんなの必要最低限だよ」

 悠介はボトルのキャップを閉めた。『二リットルの水』はリストに入っていた。確かにこれがないと生存不能だ。

「まあ全てがサプライズだと思うんだね。そういうのも楽しいでしょ」
 いやいやいや。
「そろそろ行くよ」
「えっ、もうですか。ちょっと待って」
 左の靴を脱いだ。靴下を下ろすと踵が赤くなっていた。アッコが顔を近づける。

「初日からやっちまったか。これ、使いな」
 リュックの小さなポケットを開けたアッコが、見たこともない大判の絆創膏を差し出す。

「あっ、助かります」
「あたしだって去年は豆だらけだったからね」
 踵全体を覆うように絆創膏を貼った。アッコは悠介の右に履いた靴の爪先を何カ所か押している。
「それと靴下、もう一枚履きなよ」

 言われるままにリュックから靴下を出した。二枚重ねて靴を履き直す。
「おっ、いいかも」
「よし、行くか」

 足を踏み出すと嘘のように靴と足がフィットする。
「去年のサマスペはどこだったんですか」
「新潟から輪島まで。石川県のね」

 隣を歩きながら何でもないように言う。日本地図を思い浮かべたが、その辺りの輪郭が思い浮かばない。地理が苦手で、受験で選択したのは世界史だ。
「新潟県って長いですよね。えーと、石川県との間にあるのは何でしたっけ」
「富山県。とにかく九日間、ほぼ毎日、日本海ばかり見て歩いてた」
「由里さんもですよね」
 少し離れて歩く由里が頷く。たった一年先輩だが、このサマスペの初心者である悠介と二人には山より高い経験値の差がある。

「由里さん、タフですね。疲れないんですか」
「別に」
 話が続かない。「悠介君、よく走ったね」とか「踵は大丈夫なの」とか、普通は労うものだろう。親しく言葉を交わしたい。由里のことを知りたかった。そのために来たのだ。

 由里は何に関心があるのだろう。趣味は? 好きなドラマは? 用意していた質問はすべてが気楽すぎて、この場にはそぐわない。

「由里は高校の時にね、陸上の長距離ランナーだったんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「そしてあたしは応援団。ずっと由里を応援してきたんだ」

 学ランにはちまきを締めたアッコが、競技場で由里の応援をしている姿は普通に目に浮かぶ。

「アッコ、その話はしないでってば」
 由里は前を見て淡々と歩いている。視線が合わない。同好会に入って三カ月、何度か話しかけたが由里は必要なことしか喋らない。表情も変えない。
 そして太宰府での祈願の甲斐もなく、サマスペが始まっても彼女の、私に立ち入らないでオーラは強く輝いたままだった。

 歩き続けること三時間。一行は佐賀県鳥栖市に入っていた。国道3号は二車線になり、歩道は左側にしかない。時折、地元の人の自転車とすれ違うのが、ぎりぎり。これでは確かに二人並んで歩くのがやっとだ。

「あっ」
待ち望んでいた『久留米市』の標識。悠介は標識の隣に走って旗を振り回す。
「アッコ先輩、由里さん。やった久留米だ、久留米」
「はしゃぐなって、危ないだろ」

 何かくすぐったいものが喉元までせり上がってくる。じっとしてなどいられない。
「着いた着いた。着きましたよ。それで久留米のどこのホテルに泊まるんですか」
 アッコが笑った。
「行けばわかるよ」
「旅館ですか。いや、民宿? 温泉、ありますよね」

 悠介の足は急に軽くなった。我ながら現金だと思うが、きつい旗持ちが一回終わるのだ。他の一年はこれからだと思うと、ほくそ笑みそうになる。
 ほどなく現れた筑後川を渡ると再び道が広くなる。パチンコホールやホテル、大型スポーツ用品店が立ち並ぶ。久留米市の中心部に入ってきたのだろう。しばらく歩くと、国道のガードレールに誰かが腰を掛けている。Tシャツにトレーニングパンツ。頭にタオルを巻いていた。地元の中坊だろうかと目を凝らす。

「あれっ、ライトじゃないか」
 同期の井上礼人だ。新人歓迎コンパの自己紹介で「名前の漢字は嫌いなんで、カタカナのライトでよろしくお願いします」と妙な挨拶をしていた。「なんで嫌いなの」と訊いた女子に「礼をする人なんて、いつもぺこぺこしてるみたいだろ」と言って笑っていた。にこにこして人の良さそうな印象だった。そのライトが悠介たちに気づいて両手を上げる。

「なんであいつ、先にいるんだろ。抜かれてませんよね」
「あんた、本当に何も知らないんだね」
「バイトが忙しくて、学生会館に行ってなかったんで」

 同好会の溜まり場は大学の学生会館にあるのだが、悠介は九州への旅費を稼ぐためにバイトに励んでいたから、ほとんど顔を出していない。そもそも由里以外と話したいとも思わない。そういうわけでサマスペの情報はほとんど聞いていなかった。

「ライトは本日の食当だよ」
「しょくとう?」
「食事当番のこと。一日三名ずつの交代制。ちなみに今日はライトと高見沢に熊さんだよ」
「くまさん?」
「ああ、水戸さんのニックネーム。そのうちわかるよ。それで熊さんたち食当は、午後になったら電車やバスに乗って先に宿泊地入りするんだ。そしていろいろ準備して待っているって段取りさ」
「なるほど。おっ、ということは」
「そう。今日の宿が近くにあるよ。ライトはその目印になってるわけ。ずっと立ってるから、立ちんぼって呼ぶけどね」

 大梅田からは、宿泊地は久留米市、国道3号を南下しろとしか指示されていない。なんてアバウトなんだと思ったけど、それで十分だった。これなら間違えて通り過ぎることはない。

「ライトにその旗を渡せば、今日の悠介の旗持ちはお役目終了だ」
「ライトお」
 悠介は大声を上げて走り出した。

「おっ、初日から感動のハグか」
はやすようなアッコの声。ふいに悠介の胃壁が刺されるように痛む。ライトの数歩前でたたらを踏んだ。両手を広げて待ち構えたライトが小首を傾げた。

「悠介、どうした? 大丈夫かい」

 やっぱり駄目だったのか。

 悠介は片手を腹に当てて腰を折り曲げた。痛みそのものよりも、この痛みに再び襲われたことがショックだった。
 旗を杖代わりにして頭を下げている内に胃の痛みが消えた。
急に走ったから自律神経が驚いただけだ。そうだ。そうに違いない。あのことは考えるな。思い出すな。

「悠介、しっかりしろよ」
 悠介は普通の表情をつくって顔を上げた。
「腹が……減って」
「なんだ。脅かすなよ。宿に着けばご飯があるよ」
「そうだよな。それじゃ、これ頼む」
 ライトに旗を差し出す。
「旗持ち、お疲れさん。でも悪いんだけどさ」
 ライトは申し訳なさそうに国道と交差する道を指さす。
「宿はこの道を一キロ歩いたところなんだ。もうひと頑張り」
 その場に尻をついた。走るんじゃなかった。

「ライト、立ちんぼ、お疲れ」
 アッコと由里が追いついた。
「お疲れさまでした」
「ばかだね、悠介は。無駄に体力使ってさ」
「何とでも言ってください」
 とにもかくにも、もう追いかけられずにすむ。地獄の旗持ちは終わったのだ。
「ところでライト、今日はどこに泊まるの」
「善経寺っていうお寺です。旗が掛けてあるからすぐわかります」

 二人の会話に悠介は顔を上げた。
「お寺?」
 宿坊というやつだろうか。最近は観光客を宿泊させる寺が増えているのは知っていた。

「ほら、悠介、立て。置いてくよ」
 なんとか片膝をついた。先輩二人はもう先を歩いている。由里がちらりとこちらを振り返った。悠介はその瞬間、根性で立ち上がった。腕時計に目をやると五時近い。邪魔者はいたが、由里と四時間も一緒に過ごしたことになる。そして旗持ちの役目を果たした自分を褒めてやりたい。由里も少しは悠介のことを評価したはずだ。そう思いたい。

 前を歩く邪魔者のリュックに一文字、『勝』と書かれたお守りがぶら下がっている。由里のリュックにも小さなピンクの巾着が揺れていた。『学業守』と書かれている。二人とも太宰府に参拝していたのか。
 二人のお守りを眺めながら、メシ、風呂、メシ、風呂と重い足を交互に動かした。

「ああ、ここだ」
 アッコの視線の先に瓦葺きのこぢんまりした山門があった。その脇にある石の柵には、ガムテープでとめた『レッツ・ウォーク!』の旗。善経寺はごく普通のどこにでもあるお寺だった。

「こんな所に泊まるんですか」
「こら、失礼なこと言うな。泊めていただくんだから」
 アッコは「こんにちは」と大声を上げて、山門をくぐっていく。由里もきちんと礼をして続いた。

「おっ、先頭か。お疲れ」
 お堂らしき古い建物から水戸が手を振る。新聞紙の束を持っていた。
「そこに水道があるから、使わせてもらえ」

 庭の水道に水撒き用のホースがついていた。アッコがさっそく蛇口を捻って、由里と代わる代わる手を洗う。

「悠介。抜かれなかったか」
 水戸が目尻を下げて笑いかける。この人は話しやすい。同じ三年生だがスキンヘッドゴリラとは大違いだ。

「はい、何とか。あの水戸さん、温泉とかは?」 
「温泉? 何言ってんだ」
「風呂は? いやシャワーでもいいんですけど」
 猛烈に風呂に入りたかった。汗と埃でべとべとの身体を洗いたい。

「そんなもんあるか」
 悠介は絶句した。
「水道を使えって言っただろ。今、女子が使ってるから、お前、ちょっと手伝え」

 手招きされてお堂に上がる木製の階段に腰を下ろした。そっと左の靴を脱ぐ。靴下が赤く染まっているのではと心配だったが、砂埃で茶色くなっているだけだ。お堂は高校の教室くらいの広さがある。

 隅に座布団と折り畳まれたテーブルが置かれているだけで、がらんとしていた。その中央で水戸が古新聞を床に敷く。
 悠介はリュックが三つ置いてある所に、自分のリュックを下ろした。

「仏像とか無いんですね」
「本堂は別だ。ここは檀家の集まりとかに使うらしいな。ほら、お前も敷け」
 新聞紙を受け取って、床に拡げた。

「これ、何をしてるんですか」
「ここで食事をするんだ。汚しちゃいかんだろ。それに今日はここで雑魚寝だしな」
「えっ、布団とかは?」
「なんのために寝袋を持ってきたんだ」
 寝袋は持ち物リストにあった。

「途中でキャンプしてテントに泊まるのかなと」
「キャンプファイヤーにバーベキューとか想像してたのか」
「楽しみにしてました」
 ガハハと笑われた。悠介はようやく理解し始めた。

「もしかして、ただで泊めてもらうんですか」
「もちろんだ。基本、サマスペは金を使わない趣旨だからな。宿泊地が決まったら、無料で泊めてくれる場所を探すんだ」
「それは……予約してあるんですよね」
「まさか。正確な宿泊地なんか当日の午前中までの行程次第だ。事前に決められるわけないだろ」
「どこに泊まるか、決まってないんですか」

 なんと言ったらいいのか、もはやわからない。
「でも、さすがに今日の宿泊地は久留米って決まってましたよね。初日ですから」
 水戸が悠介の顔を覗き込むようにして「あのな」と言う。
「その日の食当が行き当たりばったりで、宿を探すのがサマスペなんだよ」

 副幹事長の圧に押されるように身体を引いた。
「毎日、宿を探すんですか。もし見つからなかったら?」
「野宿だな」
 唖然とした。

「今日は幸いなことに、このお寺をお借りできたってことだ」
「と言うことは今日の夕飯は」
「むろん食当の俺たちが今、作ってるところだ。台所を借りてな。集合場所に鍋釜があったのを見ただろう。あんなものを持って歩く理由が他にあるか」
「だから、キャンプする日には自炊するのかなと」
「これから最終日までずっと自炊だ」

 水戸が重々しく答える。
「よし、こんなもんでいいだろ」

 新聞紙で二十人ほどが座れそうなスペースができた。
「最後尾が着いたらメシにするからな。どっか散歩とか行くなら、六時には戻れよ。時計は持ってるな」
「時計は没収じゃないんですね。これも電気で動くけど」
「持ち物リストにあっただろ。昔からあるものはセーフなんだよ」

 その基準が意味不明だが、腕時計が必要な理由はわかった。スマホを没収されたら時間がわからないからだ。

 水戸はみしみし床を鳴らして、お堂を出て行く。悠介はリュックに這い寄ってペットボトルの水を飲んだ。

 これがサマスペか。

 ウォーキングで九州の自然を満喫した後は、名所を巡りご当地グルメを食べまくって、夜はレクリエーションを楽しむ。あわよくば由里の部屋に遊びに行くような展開も期待していた。

 甘かった。バイト先のコンビニで一番売れるスイーツといえば、カスタードたっぷりのシュークリームだが、それより百倍も甘かった。

 チープカシオは五時過ぎ。夕飯までまだ一時間近くあるが、とても散歩などする気にならない。
 お堂は涼しかった。汗が引いたせいか、水道に行くのが面倒に感じる。もうどうでも良くなってきた。板の間に突っ伏した。冷たくて気持ちがいい。木はこんなに柔らかいものだったのか。そう思った時には、眠りに引きずり込まれていた。

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