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サマスペ! 九州縦断徒歩合宿(17)

八日目★★★★★★★★ 

 頑張れ、頑張れ。
悠介は頭の中で繰り返しながら宮崎の地を歩いていた。この一週間でくたびれきったスポーツシューズに目を落とす。戦友とも相棒とも呼べそうな、そのシューズのかかとのゴム底を、さっきから擦るようにして歩いている。
 こんな疲れはこれまでに感じたことがない。身体が重い。力が抜けて時折くらっとする。えびの駅近くで取った昼食休憩の後、二時間ほど歩いた頃から違和感を抱き始めた。
 普段は時速六キロで歩くのだが、今は四キロも出ていないだろう。ウォーキング同好会のメンバーにとっては、のんびり散歩するような速度だ。途中で追いついてきた次郎が一緒に歩くと言ってくれたが、悠介は少し強い口調で先に行くように頼んだ。
 次郎はメンバーの中で一番体力がない。テーピングでごまかしている腿の痛みがぶり返したら歩けなくなってしまうだろう。自分のペースを崩すと、後で思わぬしっぺ返しが来る。
 次々に抜かれた悠介は、かなり後ろの方を歩いているはずだった。
「おい、大丈夫か、悠介」
 ここしばらく悠介の前を歩いていた斉藤が振り向いた。
 お前のせいだろうが。午前中、ずっと追い立てやがって。
 悠介は午前の旗持ちだった。今朝は二年生の志願がなかった。先輩たちも体力を温存したかったのだろう。午前のルートは国道212号線をえびの市に向かって南下する、高く険しい山道だった。
途中、二つのループ橋があって、阿蘇よりも難所だったと思う。そこを斉藤に執拗に追い回された。もう十分に後続との距離は開いていたのに、いつまでもいつまでも。涼の一件を根に持っているのだ。
一つ目の人吉ループ橋では、伴走の鳥山が「斉藤、ここは歩こうや」と言ってくれて、一息つけた。疲れ切っていたが、橋から望む景色には息をのんだ。遠くにかすむ雄大な霧島連山、濃淡さまざまな緑の布を敷き詰めたような田畑、豆粒みたいな街の建物。高いところが苦手な悠介は目がくらみそうだった。
 えびの市街に降りていく手前の関門、えびのループ橋は、まさに山の中腹にへばりつく大蛇だった。その橋をらせん状に三百メートル近く駈け降りたそばから「よし、もういっちょ走るぞ、悠介」と言われた悠介は、足を止めて斉藤をにらみつけた。
不穏な空気を察した鳥山に「まあまあ」となだめられなければ「いい加減にしろよ」と叫んで殴りかかるところだった。斉藤のわずかな髪をむしってやりたくなる衝動を抑えるのに苦労した。追いかけられるストレスで自律神経もおかしくなった。

「お疲れ、もう少しでゴールだな」
 からりとした声が背中でする。水戸だ。
「どうした、悠介。顔が白いぞ」
 髭の中の口が笑った。
「はあ……」
 しゃべるのもおっくうだ。
「じきに立ちんぼがいる高原町郵便局が見えるはずだからな。頑張れよ」
 黙って頷いた。
「午前中、斉藤に追われたせいで、ばててるんだろ」
 ご指摘の通りです。
「あっ、水戸さん、よく言いますよ。去年は僕を死ぬほど追いかけたくせに」
「おっ、そうだったか」
 豪快に笑った水戸は悠介の前に出て「まあ、悪く思うな」と斉藤の肩をたたく。どんな時も陽気な人だ。悠介は歩道の隣に並んでつくられた花壇を眺めながら、気持ちを切らないように一歩ずつ足を進めた。今日のゴールは近い。あと少しの辛抱だ。
「僕ら、最後ですかね」
「ああ。由里と俺が最後尾だったからな。お前ら、由里に途中で抜かされただろ」
 悠介は二人の話に聞き耳を立てる。どんなに疲れていようと「由里」の名前だけには反応してしまう。
「ええ、あの走りっぷりはマラソンランナーですよ」
 十五分ほど前、由里が風を切るように追い抜いて行った。
「とてもじゃないが、あいつが走るとついていけないよな」
 斉藤が水戸に笑いかける。
「水戸さん、追いかけようとしたんですか」
「まあ女子一人だったからな」
 由里かアッコが一人で遅れているときは、三年が交代でその後ろを歩くようにしている。それはなんとなく気づいていた。
「それは無理ですって。インターハイを狙ってた選手に勝てるわけないです」
「そりゃあそうだ。よーくわかってるよ」
 陸上の長距離ランナーだったのは、聞いていたが、そんな有望な選手だったのか。
「あいつ、大学で陸上部とかに入ればよかったのに。なんでうちなんかに入会したんだろう。水戸さん、何か聞いてますか」
 それは悠介も知りたい。よりによってこんなおかしな同好会に入るなんて。
「さあ、由里は自分のことを話さないからな。ただ陸上は高校の途中でやめたらしいぞ。詳しくは知らんけど」
「ふうん。故障でもしたのかな。もったいないですよねえ」
 おかしな同好会の副幹事長は、剛毛の生えたあごに手をやる。
「あれっ、斉藤。ひょっとして由里に関心があるのか」
 悠介は斉藤の地肌が見える後頭部をにらみつけた。
「やめてくださいよ、あんなの。僕はポンポン会話が弾むような子が好みなんです」
 お前の好みなんかどうでもいいんだよ。
「本当か? 言っとくけど由里はやめといた方がいいぞ」
 悠介は水戸の言葉に集中した。
「あの子は好きな男がいるからな」
 一瞬、足が止まった。すぐにまた歩き始めたが、踏み出す足の裏からわずかに残っていたエネルギーが漏れ出ていく。
「いや、だから僕は興味ないんで」
 誰だ、好きな男って誰なんだ。興味ないとか言ってないで聞けよ、斉藤。
「すると斉藤はあっちの方が心配なのかな」
「えっ、なんですか」
「幹事長選挙だよ」
 そんな話はどうでもいい。
「年末の選挙で俺たちは引退だ。斉藤は梅の後を、狙ってるんだろ」
「はあ、まあ。引き継げたらと思ってます」
 二人の会話が頭の中を素通りしていく。由里に彼氏がいるなんて、噂すら聞いたことがなかった。同好会以外の由里の交友関係など悠介に知るよしもない。同じ学部の学生か。バイト先か。それとも高校の頃の知り合いだろうか。陸上部の先輩か。あるいは教師か。
「うちの会員は八十三名だが、女子の方が多いからな。由里かアッコが立候補したら、いい線行くんじゃないか」
「そんな。うちの同好会は、これまで女子の幹事はいなかったでしょ」
 由里に好きな男がいる。過酷なサマスペを耐えてきた悠介の心の支えが崩れ去っていく。
「サマスペ経験者が幹事の条件だからな。今までサマスペに女子の参加がなかっただけだ。あの二人は今年で二回目だろ。まったく問題ない」
「そうですけどね」
 ほんの時たま由里が見せた笑顔が浮かぶ。あの笑顔を独り占めするのは誰だ。その男は「私はいつ死んでもいいので」と由里が思っていることを知っているのか。あの由里の手を取って前を向かせてやれるのか。
何のために悠介はここまで歩いてきたのか。
 身体が重い。足が前に出ない。足首に鉄の輪っかをつけられたようだ。
「でも由里って、一人で黙りこくってること、多いじゃないですか。積極的でもないし、人を引っ張っていく幹事長タイプとは違いますよ」
 由里がぼうっとしているのは何度も見かけた。しかしそれを斉藤ごときに言われるのは心外だ。
「サマスペでは時々、人が変わったように主張することがあるんだよな。熊本で岡﨑先輩に反論した時みたいにな」
 サマスペに女子が参加することについて岡﨑を論破した時だ。あれは格好良かった。
「そう言えば……。まあ普段の同好会でもあれくらい活発なら、副幹事長くらい任せてもいいですけど」
「ほほう、副幹事長くらいか。それにしても由里の普段とサマスペとの落差はなんだろうな」
「さあ」
「そもそもサマスペに参加してることからして不思議だよ。あの子は謎だ」
 水戸が首を捻った。その後頭部がぐにゃりと歪んだ。悠介は首を振った。疲れが目の神経にまで来てる。
「ならアッコはどうだ。あいつはバイタリティーが服を着てるようなやつだからな。幹事長向きじゃないか」
「そう言われてみれば……」
 水戸が「そうだ」と声を上げた。
「アッコが立候補して由里が応援すれば、女子の票が割れずにアッコに集中するんじゃないか――」
 水戸が何か喋っている。その声がボリュームを落とすように小さくなる。
 あれっ。
 今、俺、寝てたか? 悠介はぞっとした。意識が途切れていた。
「おっ、郵便局だ。立ちんぼがいますよ」
 顔を上げた目の前が暗くなっていく。足が止まった。あれほど重かった身体がふわりと軽くなる。風景が流れた。
やばい。倒れてしまう。よろめいた悠介は、傍らにあった標識のポールを右手で何とかつかんだが、腕に体重を支える力がない。右肩にポールがぶつかる。
 足元に花壇が見えた。揺れる花は柔らかそうだ。その花びらが近づいてきて、消えた。
「あっ、悠介」
「おい、どうした」
 声が遠くに聞こえた。

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