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肩慣らし

お久しぶりです。

最近は、あんまりにも、真剣に考えねばという気持ちからは、とても逃れられない出来事と状況に見舞われていました。

事柄はそれぞれ違いますが、自分が関心のある対象が立て続けに失われる、危機に侵される、犠牲が出る、そんなことばかりですね。




二人とも自由人がすぎて、それでも必死に確定申告が近付くと焦りながら電卓を賢明には弾いて税金はおさめ、そこまで悪事に手を染めるとかは無縁だったであろうはずの両親が段々、90年代お終い、2000年ミレニアムとか騒いでいる頃はお先真っ暗だったかな。自分は思春期にさしかかる頃でも明白だった。いい未来は見えなかった。ひとつずつ自分らの大切なものを失い、転落を遂げる最中で私は育ってきました。

どうしてなんだろう、何でこうなってしまうのだろう、そこまで悪いことはしていなかっただろう、頑張ってはいるだろう、そんなに才能がない訳ではないだろう、悪くないことが悪いのか、狡さが必要なのか…時代?

答えらしい答えはあまり出ませんでしたし、今も何が正しいかは分かりませんし、決められませんが、もう上のような問いは散々し尽くし、自分なりの着点で生き、今は又さらなる段階が訪れてきたと感じています。

両親が色々なことを諦め、人としての自信も、財産も失い続けながら、自分を育ててゆかなければならない、本当に書いている今も涙が出てくるようなつらい生活をどうしたらよいのか分からなくて、私も気力なんか目を覚ます程に刻々と殆どなくして、勉強しているフリ、遊んでいるフリをしながら、悔しさとやるせなさと生まれもった強欲だけを頼りに、何かすがれるものを探してました。過保護なお嬢ちゃん育ちだったし、ちゃんと働けるような自信もなく、とにかく家庭全体で自信を失っていたので、もともとシャイでどうしようもないところにそんな条件も加わり、本当に十代後半からしばらくは会話らしい会話は誰とも成り立たず、考え、イメージのようなものにすがるしかなかったのです。(飲酒のきっかけも募る考えをはき出したく言葉を発する目的が半分くらいだったのは事実です)

文学や歴史の匂いをたのしみたい気持ちと常に隣あわせではあったけど、現実にはそんな心の余裕はどこにもなく、心の拠り所をとにかくがむしゃらに探して行き着いたドストエフスキーの『悪霊』を読み、その本がすべてを言いあてていると当時ひとしきり大満足をし、そこからは安心してすべてのエネルギー、空き時間、借金、労働を、背伸びして映像と酒場に注ぎ込む生活をはじめました。何も考えずに。いや、何かしらはいつも小賢しく考えていたけど、当時はおもに悪酒で頭を破壊し、時間をやりすごすことで、何もすることもしたいこともない相手にしてもらえない世の中での身の置き場のバランスをとっていました。東京に生まれ、東京で育ち、暮らしよかったと思えることといえば、名画座がいくつもあるということです。(三茶、浅草、シネマライズ、パトス…たくさん閉館はしてゆきましたが)

おっと…まえがき?になればいいですが、尻切れトンボになってしまうかな…

今の世の中は、確実にやばい。
いま危機感をもたなくていられている人も、順番は迫ってくるのではないか。加速がすごい。私はもう一度、こどもと大人の狭間ではあったけど振り落とされた側なので、この先起こってゆく悪いことについての想像を絶するおそろしさの感覚は分かる。奇跡的に自分の思うプラスマイナスゼロ(それ以上は無理だった、人を人と思わなくなったらおしまいだと思ったし、自分にも随分な身勝手さはあるけど、どんな職業で芸を売るにしても、上級国民以外はこの先自分を押し通せてゆけるほど甘くはないだろうと思っているし、どちらかと言えばぎりぎりのところで、やりすごす道は取りたくない方に傾く。できないのに…ああいやになるね)のあたりまではどうにか人と人の営みに支えられ這い上がったので、これからどうしたらいいのかは、やっとみえてきてはいるものの、奈落の底まで落ちていきそうな穴の側で、崩れてゆきそうな地面に怯えながら、地を固めて、どうにか穴に落ちないよう身を守り、人としての営みを守ろうとしている。


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