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8:抑圧期、存在価値は「母のために」

マガジン「人の形を手に入れるまで」の8話目です。まだ前書きを読んでいない方は、こちらからご覧ください。

父親が単身赴任になり、その後大学でうつ病を発症するまでの間。この期間を適切に表すなら、「抑圧期」と言う言葉が適切だと思う。

高校進学は、母の強い意向で普通科高校に進んだ。大学に行けなかった母が、私には大学に行ってもらいたいと熱望したからだ。私はその希望を飲んだ。ただ、中学時代の人間関係を捨てたくて少し遠くの女子校を選択させてもらった。

思い返せば、高校時代の幸先は良く、とても面白かった。所属した演劇部はとても刺激的だったし、同級生とも話が合う。いじめのリーダーになるような男の子もいない。『この3年間はうまくやれるかもしれない。』そんな漠然とした期待を持って過ごしていたある日のこと。

「陸、お前の親御さんから退部届が出てる。」

顧問が私を呼び止めた。顧問は突然の母親登場に戸惑っていた。本当に辞めたいのか?何か事情があるのか?何か力になれるか?心配そうにいろいろ聞いてくれた。私は言葉に詰まってしまった。

本当は正直に、先生にいろんなことを話したかった。でも話したところでどうなるんだろう。大会のキャスト選抜を控えた時期に、私の家庭の事情を先輩方に背負わせたくない。この半年、楽しい時間を過ごさせてくれた部活の人たちを私の母に巻き込みたくない。

だから冷えている方の頭の判断に従った。「実は家が遠方で、下校時刻が下がると前から親には反対されてたんです」。その説明に顧問も納得した。きっと無理だろうとわかっていただろうけれど、「帰ってこれるなら帰っておいで」と言ってくれた。


その部活は県下でも有名な演劇部だった。文化祭の劇でさえ配役がもらえるなら喜ばしい。そんな強豪校だったのだ。

私は文化祭で配役をもらえていた。楽しくて、誇らしくて、母が忌々しく思うほどに部活に打ち込んでいた。家では居心地が悪いけれど、学校で劇をしているときは「私」から離れられる…楽しくないわけがなかった。母が顧問に退部届を出したのは、その文化祭が終わった直後のこと。きっと、おそらく母なりの精一杯の譲歩だったのだろう。文化祭の打ち上げにも出らず、私は退部することになった。

突然の退部。途端に私の居場所はなくなった。相談もなく突然やめた部員のことを庇う人はなかなかいない。部活を急にやめた無責任な人とのレッテルだけが貼られ、部活動の強豪校らしく、私はクラスから少し浮いた。

そんな状況とは知らず、母は上機嫌だった。学校を終えて帰ってくる娘を家で待つ。その日の出来事を娘から聞きながら、ゆったりと夕飯を食べる。絵に書いたような「良い母」でいられる。母の幸せの為に有ることが、私の生活の最低条件だった。



駆け出しライター「りくとん」です。諸事情で居住エリアでのPSW活動ができなくなってしまいましたが、オンラインPSWとして頑張りたいと思います。皆様のサポート、どうぞよろしくお願いします!