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卒論における地域社会と調査者の距離

先日、卒業論文を提出しました。

最近はプログラミングばかりしているので、情報系の専攻に間違えられることも増えてきたのですが、所属は経済学部で地域社会学に分類されそうな卒業論文を書きました。アカデミックライティングに慣れていないためか、構成は頭の中にあるのに筆がなかなか進みませんでしたが、なんとか締切日の朝に書き終えることができました。

論文の題材は「原発被災地域における移住定住促進政策」にしました。令和2年の福島再生特別措置法が改正されて、加速化交付金が移住促進事業にも使えるようになったことが、現場の自治体にどのような影響を与えたかを調査することから始まる論文です。高校生の頃から関わりのある福島県双葉郡葛尾村にて現地調査を行いました。ここ5年間で見てきたこと感じてきたことの背後にあるものがだんだんと浮かび上がってくる感覚があって非常に面白かったです。

この論文を書く中で悩んでいたことがありました。それは地域社会と調査者の距離です。「原発被災地域における移住定住促進政策」に対して、私は全くもって部外者ではありません。大学1~2年次には葛尾村での地域インターンシップ事務局の仕事をしており、3~4年次には移住促進関連の補助金を自分たちの主催する展示に利用させてもらいました。そのような距離にいる自分が「観察者」として現地調査を行えるのかということを悩んでいました。時には、研究会の外で卒論について話した際に、それは科学ではないという旨の批判を受けることもありました。

この自己あるいは他者からの批判に対して、2つの応答をしようと思います。科学哲学や社会調査論にあまり詳しくないので、関連する議論や文献があれば教えていただけると嬉しいです。

純粋な観察は可能か

上述のような文脈で「観察」と言うとき、それは「対象に可能な限り影響を与えずにその状態を見ること」を意味するでしょう。辞書で「観察」を引いてみても「事物の現象を自然の状態のまま客観的に見ること」という記述がありました。したがって、先の批判はひとまず「調査者が対象に影響を与えることは避けるべきだ」と言い換えることができると思います。

物理現象を観察するのであれば、その主張は的を得たものであると考えられます。例えば、同一条件下の実験の結果が観測者の影響によって全く変わってしまうのが重大な問題であることは、自然科学を専攻していない自分でも分かります(もう少し込み入った議論があったら申し訳ない)

一方で、地域社会のような対象に影響を与えずに観察することは可能でしょうか。物理現象と異なり、地域社会は観察者も含み込んで成立しているため、少なくとも質的調査において全く独立した観察者はありえないように思われます。また、対象との関係によって調査結果が変わってしまうことも、調査者の価値判断が内在してしまうこともあるように思われます。

具体的には、現地調査の中で私は以前から関わりのある村役場や地域団体の方々に聞き取りを行いました。その関係がなければ聞くことのできなかった話も、その関係があるから聞くことのできなかった話もあるでしょう。また、原発被災地域における移住定住促進政策に対して問題意識を持っているから卒論の題材にしたわけで、調査者の価値判断を全くないものにすることも困難であるように思われます。

例えば、葛尾村と全く関わりのない研究者が現地調査をしたとして、それは純粋な観察だと言えるでしょうか。おそらくその調査者と対象の間に固有の関係が生まれ、調査者の価値基準から観察することには変わりないのではないかと思います。そうであるならば、純粋な観察を行うことよりも、観察において与えた影響に自覚的であることの方が重要だと考えられます。影響を与えることそのものを否定するのは、むしろ無自覚な価値判断を助長するのではないでしょうか。

観察と活動は両立できるか

1つ目の応答は、自然科学と社会科学の違いであるように思います。大学の授業でも、研究会の指導教員からも、近しい内容の話を聞いた記憶があります。これを否定してしまっては、ほとんどの質的社会調査は成立しないでしょう。質的調査は科学ではないという立場の方もいるのかもしれませんが、それは立場の違いと捉えることにします。

それよりも私にとって重要な問いは「調査者は同時に活動者でありえるか」というものです。1つ目の応答に賛同したとしても「それはあくまで調査の中で与える影響についての話であって、君が与えている影響はそれとは別に活動によるものではないか」という批判はありえます。自分でもこの批判について卒論の構想を始めてからずっと考えてきました。

復興事業に仕事で携わって、友人たちと村での展示を企画して、明らかに地域社会に影響を与えようとしてきた自分が観察することはできるのでしょうか。「そのような試みは科学と呼べるのか」と問われると、正直なんて答えてよいのか分かりません。それでも、そのような試みには意味があるとそう思ったので、この卒業論文を書きました。

「原発被災地域における移住定住促進政策」という題材を選んだのは、この5年間で見てきた「葛尾村における移住定住促進事業」が上手くいっているようには思えなかったためです。その一端を自分も担ってきた自覚があり、どうにかしようと模索する中で、友人たちとグループ展を企画した経緯があります。そうした自分自身の体験の中で感じてきた上手くいかなさを可能な限り突き放して客観的に捉えようとしたのが今回の卒論での試みです。そして、そこで捉えたことを地域の方々に共有したり、自分たちの活動に反映させたりしようとしています。

このような態度を科学的ではないなどと批判されたとしても、主観的な体験を全く突き放そうとせずに突き進むよりはマシな態度ではないかと考えています。加えて、仮に優れた分析をとしたとしても、活動あるいは調査の中で見てきた目の前の状況は変わりません。少なくともすぐには変わりません。そうであるならば、いかに行動するかを考えることにも意味はあるのではないでしょうか。大学院に進むのではなく、生活者として村に関わり続けることを選んだからなのかもしれませんが、自分にはそう感じられます。卒論においては、参加型アクションリサーチの方法論を引用して、このような姿勢について考えました。

終わりに

冒頭で最近はプログラミングばかりしていると書きましたが、このような卒論を書くよりも、アプリ開発をしている方が評価してもらえるし給料ももらえるし適性もあるように思います。一方で、卒論も展示も現地調査や作品制作をする度に出費がかさみますし、自分なりに頑張った結果として陰口を言われるだって多々あります。どう考えても、割に合っていません。

それでも、この卒論をちゃんと書き切りたいと思いました。そのせいでアプリ開発のアルバイトに入れなくて、今月の収入が半減したことも後悔はしていません。プログラミングは楽しいけれど、技術学習に全振りしたら強いエンジニアになれるかもと思うこともあるけれど、大学生活の中心にはずっと葛尾村とそこで出会った友人たちがありました。

しがらみのようなものだし、一貫性への執着もあると思いますが、卒業論文は自分を突き動かすものを突き放して考えるきっかけになったように感じています。そのような個人的な思案に研究を使うんじゃないという批判は甘んじて受け入れますが、個人的な葛藤をもって卒論に取り組めてよかったと心から思っています。

2月3月には卒業論文あるいは5年間の経験について話す機会がいくつかありそうなので、是非遊びに来ていただけると嬉しいです。大学院に戻るかは分かりませんが、これからも研究と活動の往復を続けていくつもりでいます。

余田大輝

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