構築すること、解体すること、再構築すること
先週は葛尾村にいた。東京までの帰り道で、この文章を書いている。
構築、解体、再構築
自分のこと、より正確には、村を通して見える自分のことを考えるとき、この三語が頭に浮かぶ。
何に対する構築あるいは解体であるか問われても、一言で答えられる気がしない。それでも、あえて一言で答えるならば、コンセプトの構築あるいは解体だと思う。
コンセプトは背骨だ。
背骨があると、姿勢が安定する。姿勢が安定すると、自分の振る舞いに自信を持つことができる。
背骨がないと、歩き始めることができない。歩き始めるためには、背骨を構築する必要がある。
その背骨でどこまで歩いて行けるだろうか。
急ごしらえの背骨では、負荷に耐えきれずに傷んでしまうかもしれない。あるいは、背骨が自分のものではない気がして、異物感を感じるようになるかもしれない。そうして、背骨は解体されていく。
それでも、歩いてきた道で得たものたちが手元には残る。背骨がなくたって生きていくことはできる。
構築は往々にして環境や他者によるものだ。解体はそれを自覚して、構築物をバラバラにして自分の手元に引き戻そうとすることだ。解体自体はとてもよいことだと私は思っている。
解体された後、運が良ければ、手元に残るものを携えて、またどこかに行くことができる。ただし、どこかに行くには、また背骨を構築しないといけない。
解体後の再構築は難しい。
再構築は、背骨の脆さや異物感を認識した上で、それでも背骨を構築しようとすることだ。自分が耐えきれなくなって解体したものを再度組み上げる必要がある。
しかし、解体されたままであるのも耐え難い。
解体後、手元に残ったもので生きていくことができたとしても、それはリアクションでしかない。何かを考えようとしても、どこまでも自分のことしか考えることができない。そのような自分には嫌悪感を抱く。
では、いかに再構築できるだろうか。
どうしようもなく何かに縛られ、そこに覚悟さえあれば、簡単に再構築できるのだとは思う。目の前の物事に真摯に取り組めば、自ずと背骨は構築されていく。
しかし、どうしようもなく何かに縛られる機会が訪れる気配は今のところ全くない。目の前の物事に真摯に取り組めばと言うけれども、目の前の物事すら自分でそれなりに選ぶことができるし、選ばなければ目まぐるしく目の前の物事は変わっていく。
その時々の目の前の物事に対して、真摯にリアクションしていくという態度もあるだろう。それは技能を軸にした再構築なのだろうだと、ここまで書いていて思った。
書き始めるときは、「誰の何のために」を軸にした再構築を想定していたが、「(誰か何かのために)技能を使う」を軸にした再構築もあるだろう。
さらに言えば、「誰の何のために何をするか」がトータルで6割くらい固まれば、それが背骨になるのだろう。完全に固まると、それはそれで身動きがとれないだろうから。
今の自分は「誰の何のために」を喪失しているのだと思う。
大学前半では、他人の事業に乗っかって「誰の何のために」をトレースしてきた。大学後半では、自分たちなりの「誰の何のために」を掴み直そうとして、展示制作をするなどしてきた。
しかし、元からその気もなかったが、素人展示で食べていけるわけがない。大学卒業後は、東京で会社員になり、これまでの目的が自分の中で薄れていった。会社員としての環境も恵まれているからこそ、目の前の物事が拡散してしまう。
とりあえず、それがリアクションだとしても、目の前の物事には真摯でありたい。それを失ったら、どうしようもない。その先は、環境と覚悟の問題なのだと思う。今はまだいろいろなものが足りていない。
一方で、「何をするか」は割と持ち合わせている方だ。
分かりやすいところだと、Webアプリとカレーを作ることができる。ただ、Webエンジニアとして、あるいはカレー屋さんとして、プロフェッショナルだと胸を張ることはできない。
カレー屋さんはどこまでも素人でいいと思っている。他にも展示や同人誌の制作を友人たちとしているが、それも素人でいいと思っている。
しかし、Webエンジニアは本業としている以上、胸を張ってプロフェッショナルだと言えるようになろうと思った。それは技術を向上させていくという狭い意味に限らず。
解体後の再構築を焦っても、すぐに転ける未来が待っているだろう。転けて転けて前に進む態度もあるだろうが、それはおそらく性に合っていない。合わないことを無理にするものでもない。
今は手元にあるものを育てながら、目の前の人たちや物事に真摯に向き合っていればいい。
そのような極めてありきたりなことを思いながら、葛尾村から東京に帰ってきた。
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