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続けてきたこと、続けていきたいこと、続けてしまったこと

2日前、Twitterを辞めてみた。何十回としてきたログアウトでもアンインストールでもない。他の人にアカウントのパスワードを変えてもらってからログアウトした。これでもう自分ひとりではログインすることができない。

そうすると、いかに身体にTwitterが染み付いていたのかがわかる。道を歩いていて、ふと何かを思いついたとき、僕はTwitterを開こうとスマホを操作し、途中でTwitterを使えないことに気が付く。この2日間だけで幾度となく繰り返した。

中学2年生から日常的にTwitterを使っている。大学生になってからは思考を書き留めておくためにも使うようになった。Twitterで人と出会うことはそんなに多くなかったが、出会った人と関係が続いたのはTwitterのおかげだったように思う。葛尾村とプログラミングと自分のことばかり投稿するアカウントも役に立つものだ。

他に10年間も続けてきたことはあるだろうか。
全く思い当たらない。

僕の人生は数年で辞めたものばかりだ。

小学校時代の習い事は何も続かなかった。中学校のハンドボール部は頑張ったけど、高校では続けなかった。高校で始めた課外活動も卒業を機に自然消滅した。大学から通い始めた葛尾村も少しずつ疎遠になっている。友人たちと始めたグループ展も3年目で無期限休止した。

スポーツなどを何十年も続けていける人を本当に尊敬している。
自分には無理だ。

でも、そんな自分を全くダメだとは思っていない。
むしろ、良いところだと思っている。

辞めたものばかりだが、そのどれも強度が高くやってきた。何かしらの実績を残してきた自負もある。それでもスパッと別のところに身を振れるから、今のような自分のあり方が可能になっているのだと思っている。強度の高さと身の振りの軽さが自分の強みだ。

ただ、この強みには発動条件がある。
自分を場所あるいは集団に縛ることだ。

自分には、ある意味で主体性があって、ある意味で主体性がない。どこかの場所にいて、ある集団に属していて、そこで何かをしていくというとき、その何かに対しては主体的になれるが、その場所や集団を選び取る主体的が著しく乏しい。自分の目的に基づいて場所や集団を選択する感覚がない。そもそも目的を生み出す夢や信念のようなものがない。

だからこそ、大学時代は葛尾村に縛られてみた。
縛られたからこそ、今の自分がある。

意味がわからないかもしれないが、縛られなければ、今ほどプログラミングができなかっただろう。あるいは、美味しいカレーが作れるようにならなかっただろう。これは信仰のようなものだ。その信仰があるから、どこかに行ける。

縛られなければいいのにとよく言われる。
心の赴くままにすればいいのにとよく言われる。

それがあまり分からない。縛られなければどこにも行けないのだから、縛らないでどこにも行かないか、別の何かに縛られるかしかない。縛られないと何も心が赴くものがない。ただ生存するだけよりは、縛られる方がよっぽど楽しい。だから、縛られ続けていたい。そういう感じだ。

しかし、そうも言っていられなくなってきた。
度重なる体調不良で、縛りよりも生存を優先することにした。

今、手元には何が残っているだろうか。ソフトウェア開発の知識。バターチキンカレーのレシピ。わかりやすいのはそんなところだろうか。テキストを読むとか、スケジュールを管理するとか、そういうのも多分得意だ。

今はこれだけを両手で抱えて療養している。
きっとしばらくしたら回復するだろう。
そのとき、僕は何に縛られてどこに行くのだろう。

本当はTwitterみたいに続けてしまったことに縛られていきたい。
そうなるだろうか。なるといいな。

本当はそういうことにするものなのかもしれない。
でも、そう思ったら負けだ。

だから、なるといいな。

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