見出し画像

逃走可能であること、継承すること

「自由であるとは何か?」

学部時代、研究会に入るための選考で行われたグループディスカッションの議題がそのようなものだった。初対面の同級生たち、たしか6名くらいと画面越しに議論した。

雑にまとめると、ほとんどの人たちが「自由とは選択可能性である」という意見を述べていた記憶がある。そして、それに逆張りしようと、「自由とは逃走可能性である」という意見を僕は述べた記憶がある。

どのような理屈でそう言ったのかはいまいち覚えていない。

ただ、今の自分も同じような事を言うような気はする。何かを選択することは非常に難しいことだ。自らの意志によって選び取ることはなおさら難しい。

例えば、最近の就職活動では「自己分析をして自分の軸を見つけて、それに合致する企業を見つける」というのが理想のあり方だとされがちである。しかし、実際には自分の軸に合致する企業はないかもしれない。あったとしても、自分には選択し得ない企業かもしれない。そもそも自分の軸が自分の意志によるものなのかさえわかりようがない。

実際にはそうできないことが多い中で、自分の意志で何かを選び取ることを持て囃すと、自分の意志の方を歪めてしまいがちだ。そもそも選択すらできない環境だってあるだろう。そう考えると、自由であることの前提となるのは、置かれている環境から逃げられることなのではないか。

おそらく、そのようなことを考えて「自由とは逃走可能性である」という意見を述べたのだと思う。

研究会に所属してから指導教員に、アイザィア・バーリン『自由論』を読むことを勧められ、「消極的自由」と「積極的自由」という概念を知った。あえて言うならば、逃走可能性は消極的自由と関連しているだろう。

一方で、逃走可能であれば、自由であるとも思えない。

どんなに逃走したとしても、どこかに留まろうとすれば、何かに縛られることになる。どこかというのは、家族かもしれないし、地域かもしれないし、技術領域かもしれないし、学問分野かもしれない。何にせよ、既に培われてきた関係の中に取り込まれていく。

物事を続けていくことは、そのような関係に取り込まれながら手を動かしていくことだ。逃走では物事を続けることができない。だとするならば、関係に囚われた中での自由も考える必要がある。

きっとそれは囚われた関係を読み換えることでしかできない。そして、読み換えた関係にまた囚われていく。その繰り返しの運動の中に自由があるように思う。

例えば、あなたが学生で部活に入ったとする。部活を辞められることが逃走可能性だろう。顧問の先生が怖くて辞められないのが不自由な状態だ。

仮に辞めずに部活を続けていくとする。あるいは、辞めて新しく同好会を立ち上げるのでもいい。それを続けていこうとしたとき、何かしらの問題に直面して、部活のあり方を多かれ少なかれ変えなければならないときが出てくる。そのときに、自らの意志で何かを選び取ることが自由な状態なのだと思う。

本当は自分の意志で部活に入ったわけじゃない場合だってあるだろう。友達の誘いに流されたのかもしれない。それでも、自らの意志で何かを選び取るとき、何かを継承しようとするとき、物事を続けながら自由であると思いたい。

自由について書いてきたが、それが自由かどうかは正直どうでもいい。ただ、逃走可能であること、継承すること、そのふたつは重要なことなのではないかと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?