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本心であること、内発的であること

本心であるか。あるいは、内発的であるか。
そのような問いの答えは、あまり重要ではないと思っている。

それは本心ではない。あるいは、外発的である。
そのような認識は、とても重要だと思っている。

やりたいことはなんですか?

そのような問いを投げかけられ続けてきた。
高校に進学したあたりからずっとだ。

偏見かもしれないが、多くの高校生にやりたいことなんてないと思う。
あるとすれば、やりはじめてしまったものだ。
少なくとも、自分はそうだった。

しかし、やりたいことを問われると、やりはじめてしまったことをやりたいこととして語らなければいけない気がしてくる。
語り続けていると、本心であるような気がしてくる。

それが上手く働くこともあるとは思うが、大抵の場合は続いていかないのではないだろうか。
本心ではないという感覚がずっと付き纏ってくる。
どこまでも自分の話だが。

やらされていること、やるしかなかったこと、やってみたこと

新しい物事を始めるとき、そう思っておく方が健康的ではないだろうか。

外発的なモチベーションだけど、とりあえず続けてみる。
そうして続けているうちに、そこから内発的な何かが生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。
それを繰り返してみる。

そのような態度を大切にしたい。
本心であるかよりも、とりあえず手を動かしてみることの方がよっぽど重要だと思いたい。

仮に本心があるとするならば、それは外からやってきて、内に掴み取るようなものなのではないだろうか。


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