見出し画像

試合は自分のクリーニングであり、剥き身の自分をしっかりと出そうと思う話

試合をすると試合同意書にサインをして返信したので、試合を決められた日時に決められた相手と試合をすることが決定しました。試合決定に嬉しい気持ちもあるけれど、やりたくない気持ちもしっかりと存在していて、自分にとっての格闘技とは何かと自分と向き合う恒例の時間が始まりました。

試合までの期間がまだまだあるからなのか、キャリアを重ねたからなのかはわからないのですが、試合に対しての感情が今までと違ってきています。前のめりになることが少なくなった代わりに状況を淡々と見て、自分がどうするのが適当かを考える落ち着き具合をベテランの妙技や達観と前向きに捉えられることもあるのですが、僕の感覚としては試合に向けた興奮や研ぎ澄まされた感覚が戻ってきていないことを不安に感じています。

試合に必要な緊張は試合が近づけば整うだろうし、試合になれば試合をする青木真也を整えられるのがベテランの妙技であるので、試合に向けては一定の安心と信頼を自分に持ってはいるのですが、整えられてしまう自分を必ずしも良いとは思っていなくて、技術で整えているのと本質的に仕上がっているのとでは大きな差があると思っています。小手先の技術で整えたところで半々くらいの割と高い確率でケージの中で剥がれるのはわかっていて、ベテラン選手のコンディションはいいはずなのに上手く行かないのは本質的に仕上がっていないからだと僕は考えています。

気力や体力が落ちていく中で仕上げていくには技術でしかなく、じゃあ本質的に仕上げる資産が残っていないベテラン選手はどうしたらいいんだよって思われると思いますが、技術で仕上げた場合は剥がれる可能性があると受け容れて「振る」しかないのです。辛く厳しい現実ではあるけれど、認めて受け容れるところが始まりだと思っています。

試合に向かう中で自分自身と向き合う時間が増えます。日常で誤魔化していたり、隠れて出ていなかったことに向き合うことができるのが試合の力だと思っていて、僕にとっての試合はクリーニングや棚卸し的な意味合いを持っているので、試合をするのは大事だと思っています。以前にも剥き身の自分と会うのが試合だとする記事を書いているのでそちらもどうぞ。

試合が決まったそのときから不安で起きるようになりました。
その不安は鋭い不安ではなく、押し潰してくるようで押し潰せるほどでないギリギリの水圧を掛けてくるような、いやーな不安の類です。こんな思いをするならやりたくないと思って、朝を起きてコーヒーを淹れる日々を数日過ごしたところですが、コーヒーを飲んでパソコンに向かうと気持ちが落ち着いて、外に出せる青木真也の範疇に戻ってきます。

ここから先は

337字

¥ 300

サポートありがとうございます。選手活動、表現活動の活動費用に当てさせていただきます。更なる良いもの、面白いものを創作する原資に大事に大事に感謝を込めて使わせて頂きます。