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競技ではなく芸事だよなって話。 ※ほぼ無料記事です&写真が最高

ボクシング戦を見ていて、K-1は打ち合いをデザインするようにルールが出来ていて見やすく、ボクシングと比較したら試合を止めるタイミングも倒れて明確なダメージが出るまで止めないので観ている側の納得感が得られると感じていました。やる側の論理で動くのがボクシングだとすると観る側の論理を持ち込む割合が大きいのが格闘技だと感じました。

相手がまだ出来る状態で止めたら観ている側の客は納得しないと思うのです。カネを払って見に行ってるのだとしたら、ガッチリやられてくれないと納得しないじゃないですか。僕の試合を島田裕二が裁くと「ストップが遅い」と言われることが多々あるのですが、客目線で言ったらしっかり殴られて終わってくれないと納得できないし、何よりも絵にならないと思います。僕は島田レフリーのストップでおかしいと思ったことはないんですよね。皆は競技目線で言いますけど、これは芸事ですからね。そもそもそこの立ち位置が違うので話が噛み合わないのですよね。

石井館長がK-1を作ったときのマインドに「コンテンツとして」があると思っていて、そのマインドが創り手にあるかどうかは大きな違いだなと感じました。格闘技も競技化されていく流れだから、ボクシングのようになっていくのだと考えると僕のやりたい格闘技は無くなっていくから、今のうちに好き勝手やってやり切らないとと感じます。まあそれはそれとして。

ボクシングも格闘技も競技としてだけでは入り込むことはできなくて、そこに感情移入できる何かがないと僕は身を乗り出して観ることができません。競技としても楽しめるからMMAの試合は観れるけれども、そこに感情移入して見れているかといえばそこはありません。あくまで技術の参考です。K-1やRIZINが見やすいのはドラマや映画であって、競技を見せてるように見せて実はドラマを見ているようなところがあるからだと僕は思っています。中村PのK-1と榊原佐藤大輔軍のRIZINをドラマとして観ていますからね。

格闘技が面白くない(青木真也の主観)のは競技で選手は勝てばいいと思ってやっているからです。挙句にはアスリートなどと自らのことを言い始める始末で目も当てられないです。アスリートではなく演者だし、競技ではなく芸事だと僕は思っています。競技ではなく芸事と考えると大体の理不尽は許せて穏やかに生きられるのでおすすめです。

青木真也は青木真也の物語を創ることが一番です。兎にも角にもどこにもない青木真也だけの物語を創り込みたいのです。青木真也が面白いと思うことをやっていきたい。ハイコンテクストの極みのようなモノを作っていきたいし、突き詰めたら会場の誰か1人にしか伝わらない誰か1人に向けたようなモノを創っていきたいと思ってやっています。それが一番楽しくやりたいことなのだから仕方がないです。もう少し大衆に寄ったモノを作れば売れるのは2008年から10年のDREAM時代に重々わかっていましたし、それでも自分が伝えたいモノや伝えたいところに拘ってやってきての今ですからね。

僕はジムをやっているわけでもないし、格闘技界に残って何かやる人間でもなければ必要な人間でもない。自分が動けて動ける環境のあるうちに悔いのない格闘人生を送ろうと思っています。

最後に僕のメンター的な存在であるカシン先生の御言葉をどうぞ。

「僕はフリーですから、仕事がなくなったらそれでおしまいなんですよ。プロレス界から自然と消えていくしかない。そうなる前に自分が楽しいと思うことをやろうと心に決めただけなんです。悔いのないようにプロレス人生を送ろうとしているだけで、特に悪意は全くございません、ハイ」

東京スポーツnote 【ケンドー・カシン評伝#6】


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