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本を読んだら 『熊本かわりばんこ』

0.出会いの熊本


社会人になって初めて、ひとり旅に出たいと思った先が、熊本。
東日本大震災のあと、絵筆を取ることのできなかった奈良美智さんが、かわりに手にした粘土。そうして作られた大きな塑像や、柔らかな色合いの女性の絵。
「不機嫌な少女の絵で有名な」というとおりいっぺんの形容詞が塵になって飛んでいき、心が静かに落ち着いていく。何年経っても色褪せることのない、展覧会の記憶。
あの展覧会はなぜ、熊本に巡回してきたのだろうか。今、巡回しない青森県立美術館での奈良美智さんの個展が、終わろうとしている。あの展覧会のことを思い出し、何度か青森に行こうと企んだけれど…今はその時期ではなかった。騒がしく流れる情報の下で、あの展覧会の記憶を、ひとり静かに反芻している。


1.『熊本かわりばんこ』


【読むのにかかった時間】数日
【再読する可能性】する。自分が歳をとっていくときに、そばに置いておきたい。
【勧める相手】猫派、阿蘇や熊本にゆかりのある人、田尻久子さんの本を見ると買わずにはいられない人。


https://daidaishoten.shop/items/65b22b7d4cf9ac002d69619e

吉本由美・田尻久子著、NHK出版刊。装丁は名久井直子。装画は坂口恭平。目に柔らかく、手触りもそっと撫でていたくなる。後述する田尻さんの他の本もそうだけれど、はっとさせられるような気品がある、美しい本。

吉本由美さんといえばスタイリスト、と記憶している方も多いだろう。吉本さんは東京での暮らしを引き払い、郷里の熊本へ戻ってきた。折しも東日本大震災の直後。はたから見ていたら、ものすごい直感が働いたのだろうかと思うけれど、東京を去り安全な熊本へ向かう彼女の胸中は、苦しかったようだ。
東京の知人に勧められていた「オレンジ 橙書店」。田尻久子さんが熊本市内で営むカフェ兼書店で、当時は長屋の一室(二室?)。久子さんが店を開く準備をするため、訪ねてきたときのことが、吉本さんの知人の印象に残っていた。それで吉本さんに訪問を勧めたのだ。
店には行けど田尻さんとはすれ違う。三回目の訪問でようやくふたりは言葉をかわし、友人になっていく。
そんなふたりがお互いの日々を綴った連載が一冊になった。ふたりは熊本地震に遭い、橙書店は移転を余儀なくされた。吉本さんは実家の庭と闘いながら自身の老いと向き合い、田尻さんは定期的に雨漏りに悩まされている。鳥が歌い、猫がうたた寝し、花が季節の移ろいを知らせる。
なんて思える熊本暮らしが描かれているように読めるが、ふたりがもともと熊本のひとだということを抜きにして読むことはできないと思う。ご近所との付き合い、変わっていく街並みの目新しさと寂しさ、残された記憶の手探り。ぽんと行って理想の暮らしができるわけではない。離れていた時間があっても、今に接続する過去があるから、ふたりの感性と人柄があるから、この暮らしが描けるのだと感じる。


2.田尻さんの本として読む

我が家には田尻さんの単著、『みぎわに立って』(里山社)、『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『橙書店にて』(筑摩書房)が並んでいる。

https://satoyamasha.com/books/2338

https://nanarokusha.shop/items/5c5d042daee1bb54db12f43e

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480439215/

私は田尻さんのファンなのだろうか?でも、数えるほどしかない橙書店に行った機会に、田尻さんがお店にいても、話しかけたことはない。
何を話せばいいのだろうか。田尻久子さんですか?お会いできて嬉しいです!ありがとうございます、シーン…となって何か当たり障りのない会話をするのだろうか。おすすめの本を教えてもらうのだろうか。
そんなことを考えてお店の中をうろうろしていると常連さんがどんどん話し始めて、私は本を選び切れずええいっと一冊差し出し、会計をしてもらい、ホッとしてお店を出る。毎回そんな感じ。ファンどころか、挙動不審かもしれない、なかなか来られないのにまたやってしまった、とうなだれながら。
でもそんなファン、他にもいるんじゃないかと自分を納得させながら、名残惜しく熊本を離れる。そして田尻さんの新刊が出たらまた、買わずにはいられない。ほらやっぱり私、ファンなんじゃないか。

そんな私にとって、この本の意外な点は、本の話が非常に少ないことだ。そして田尻さんが常に動いている。店のカウンターの外の話が多い。
この本を読むと、唯一手を出してないあの本が逆に読みたくなるんだよ、知らずにこの本を読んでしまった、と地団駄を踏んでいる。田尻さんと吉本さんは何も知らず、今日もそれぞれの熊本を暮らしているだろう。

本当の春が来たら、汗だくの夏に化けてしまう前に、熊本に行こう。そして階段を上がりながら、とりあえずコーヒーを頼んで窓際で落ち着こうと念じ、深呼吸してドアを開けるのだ。