エッセイ「肉嫌い」
僕は肉が嫌いで、間違って口に入れ噛んでしまうと、そのままゲロを吐いてしまう体質である。
ただ通常、嫌いな食べ物は口に入れたく無いだけでなく、匂いを嗅ぐのも、目の前に置かれるのも嫌だという人ばかりだが、僕は肉を美味しそうだと思ってしまう。
肉が焼かれたいい匂いや、網の上でジュージューと焼かれた肉の音に食欲を刺激される。だから焼き肉屋に行くのが大好きで、皆んなで行くと一人肉を食わず、キムチとチャンジャと煙越しに見える皆んなの笑顔をつまみに酒を飲んでいる。ちなみにタンとミノとソーセージは食べれる。
自粛期間の前に、何人かで高級な焼き肉屋に連れて行って貰ったのだが、テーブルに運ばれた宝石のように赤く輝く綺麗な肉に、肉を食える人間と一緒になって僕は「ウオー!」と歓声を上げた。
「早速いただいてもいいですか!」と叫ぶ後輩に続き「早く食べて感想を聞かせて欲しい!」と僕も叫んでいた。肉は通常の佐賀牛に加え、佐賀のチャンピオン牛の二種類があり、「早く二種類を食べ比べてどういう違いがあるのか教えて!」と興奮しながら僕はレモンサワーを一気に煽った。
テンションが上がり、その後もスマホで肉の写真を撮っていると、「さっきからお前一人だけおかしいねん、一枚も肉食わんと写真撮って恐いねん」と友人から非難を浴びせられた。
それをきっかけに、「さっきも二種類の肉の違いを知りたがってて気持ち悪かった」「そもそも肉が嫌いなのに楽しそうにしてるのが異常だ」など次々と指摘を受けた。
しかし、僕はただ肉を客観的な立場で見ているだけなのである。
つまり僕は肉が嫌いな自分が異常だと認識しているのであり、逆に自分が嫌いだとか苦手という理由だけで否定するという方が、自分が正常であり己の正義が世界の正義だと認識しているわけなので恐ろしい。
ならば自分が異常だと認識した僕の振る舞いこそが正常で、本来あるべき姿なのではないだろうか。
僕が肉を否定するのは、自分の感性に触れるコントや漫才だけを評価し、それ以外を否定する馬鹿な作家と同じである。自分の感性ではない。ネタを作った人間の感性を最高に面白いものとした上で、そのネタの世界感を最高に面白く表現する為のアドバイスを送るべきなのだ。
だから僕は肉を否定しない。もし僕が肉を食べることが出来たら、きっと僕の大好きな寿司より美味しいだろうなぁと本気で思う。分厚いステーキを見て、きめ細かなサシの入った肉を見て、これ食べれたら最高にテンション上がるやろうなと思ってテンションが上がってしまう。
この感覚はひょっとすると、争いの無い平和な世界を築くヒントになるのではないだろうかなんて、ふと思ったりなんかもする。
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