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講義のたびに宿題が出る

 私の哲学の先生は、初回の講義で、「君たちねえ、哲学というのは大学の黒板の前でするものではないんだよ」とおっしゃったので、以来その講義には出なかったのだが、試験の時、「黒板の前ではないところで学んだこと」を書き連ねたら、Aをくださった。
 講義に出るたびに、出席表の代わりに短文を提出しなければならない今時のシステムをまえに、しみじみと先生のことを思い出す。
 さて、今日は一つしか受けてないのに、お題が二つ。

「工学の工は工夫の工」

 例示された「3°の傾斜がついた電卓」について考えてみたい。
 まず、そもそもの工夫はどこから生まれるのか。日々の小さな不満や疑問をないがしろにせず、立ち止まって考察するところにアイデアが生まれる。アイデアを放置せず形にすると、価値が生まれる。
 ただし、良いことばかりではない。水平の電卓は使う人を選ばないが、例示された電卓は左利きの人には使えない。当然、左利き用も製造販売することになる。そこに経済的ロスが発生するリスクは否めまい。
 例えば本体は水平のまま左右どちらかに傾斜させる脚、という選択肢はなかったか。デザイン次第でどちらにも使えるだろう。
 ここまでは一つの製品の一つの工夫に過ぎない。それを学問の域に押し上げるには何が必要か。そこに応用の余地はあるか、汎用性、さらに普遍的な価値を生むか。骨格の検討、心理的背景。経済的にいえば、汎用大量生産とカスタマイズ・オンデマンド生産の間の、どこに視点を定めるのか。一つの工夫から視野を広げる一方、抽象度も高めなければならない。
 考えることは無限にある。だから学問はおもしろい。

「文理融合」と「文理協働」の間

 文理に限らず世の中には、様々な境界があって話が通じない、というのは珍しいことではない。両者が協力すれば解決できる、協力しなければ突破できない、そういう問題は山積している。が、山積していることにすら、気づけないことも多い。文系の人は何をしたいのか、理系の人は何ができるのか、お互いに知らないからだ。
 私は根っからの文理融合志向人間だが、講義で指摘されたとおり、それはどっちつかず、という意味でもある。専門家、という人びとに絶えざる憧れと嫉妬を感じてきた。が、次第に、自分の立ち位置にも意味がある、と思える場面も増えた。いわゆるコーディネーター、ファシリテーター、インタープリターとしてのポジションである。半端なりにも双方の知識を持ち合わせ、なにより両方に視界を広げた人間にしかできない作業だ。
 本学部のいう「文理協働」は、文理いずれかの深い専門性に立脚した上での、双方の歩み寄り、という定義だと理解した。が、歩み寄ろうという思いはあっても、なにをどう対話し、協働することが可能か、その接点を見つけ、橋を架け、可能性を広げる人材も必要だろう。本学部での学びから、そのようなあり方を深めていきたい。

 さて、明日はお休み。明後日はなにを学べるかな。

四次元年表

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