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【お受験note・より道】雙葉系の校訓を解読!

 +主の平和


今回は、首都圏の小学校受験で大変人気のある「雙葉小学校」「田園調布雙葉小学校」「横浜雙葉小学校」の3校の校訓

徳においては純真に
義務においては堅実に

この校訓を聖書の内容を元にクリスチャン流の解読を試みたいと思います。

わたしは普段小学校受験の記事を書いておりますが、この記事は幼稚園受験、中学受験で雙葉系の学校をお考えの方にも参考にしていただけるよう執筆いたしました。

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難解な校訓の難解な易しい説明

以前からnoteで度々申し上げている通り、私も主人も地方出身で、雙葉学園のことを知ったのは大学入学のために上京した後でした。

娘の小学校受験を検討するにあたり、ミッションスクールをいくつかピックアップして校風等を調べてみましたが、雙葉のこの校訓を初めて知った時は「???」でした。

そして各校の校訓の解説を読み「?????」となりました。「?」、増えてます。知れば知るほどわからなくなる謎めいた校訓というのが我が家の印象でした。

素直でまっすぐな心を持ちましょう。
自分のしなければならないことを最後までやりぬきましょう。

雙葉小学校HP

神さまに対して 人に対して 自分に対して
うそのない 明るく まっすぐな心を持ち
自分のすることを いっしょうけんめいに
責任をもってやりとげる人

田園調布雙葉小学校HP

神に対して、他人に対して、自分に対して、誠実であるように。
自分のすることは努力と責任をもって最後までやりとげるように。

横浜雙葉小学校HP

わかりやすさがわからない!

この文章をもって、在籍する小学生は校訓を理解しているというのですから、さすが難関を突破してきた子どもたちです。

首を捻ってしまいますが、そこにこそ雙葉の真髄が宿っているのです。


「あたりまえ」の難しさ

わたしたちが日常生活を送る中で、頭では正しいとわかっていることでもいざ行動に移そうと思うと、腰が重くてつい後回しにしたり、見なかったことにして放っておいたりすることはありませんか?

と、偉そうに問いかけておりますが、たった今、私の頭にブーメランが刺さりました。今日こそ1日ニコニコご機嫌なママで過ごすぞ! と決意しても、どうしてもイラッとしてしまうお受験な日常がフラッシュバック。後悔から何度枕を涙で濡らしたことか。。

あたりまえのことをあたりまえに行うことが、どれだけの労苦を伴うかを、わたしたちはよくわかっています。

中学受験の世界では、東京女子御三家の特徴を端的に言い表したたとえ話があります。道端や公園に空き缶が落ちていたら、各校の生徒はどう対応するか、という内容です。

桜蔭;空き缶を拾って実験を始める or 勉強に夢中で空き缶に気づかない
女子学院;空き缶で缶蹴り遊びを始める→その後ゴミ箱に捨てる
雙葉;空き缶をゴミ箱に捨てる

桜蔭とJGに比べて、雙葉の行動は地味です。

そういえば、とある幼児教室の雙葉学園が大好きすぎる先生(※雙葉の関係者ではない)は

「『雙葉生は『空き缶をゴミ箱に捨てる』? 違います。そんな地味さではありません。『空き缶を拾って自分の鞄にそっとしまい、自宅に帰って捨てる』これが真の雙葉生です」

とおっしゃっていたことを思い出しました。なるほど、地味のレベルが高いです。

もちろんこれはフィクションの話ではあるのですが、ふと立ち止まって考えてみます。道端に落ちている、自分たちが捨てたものではない空き缶を拾ってゴミ箱に捨てる人は、果たしてどれだけいるでしょう? 

例えばこれが遠足などに出かけた場合に、自分たちで出したゴミであれば持ち帰るのが当然ですが、誰が残したのかも、口にしたのかも、何が入っているかもわからない空き缶なら、手に取ることさえ難しいでしょう。コロナ禍を経て衛生観念が著しく上昇した現代社会であれば尚更です。

ゴミを放置することはよくないことであり、もし道端にゴミが落ちていたら「拾ってゴミ箱へ」という道徳観念を、私たちは幼い頃から教えられてきたはずですし、そうすることが正しいということも頭ではわかっています。

しかしながら、それを実際に行動に移すとなると、大半の方は躊躇するのではないでしょうか。

息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。

ヤコブの手紙2・26

ヤコブさんの強烈な一言をご紹介しました。信仰を持つということは、行いを伴うことを同時に求められるのです。

だからと言って、じゃあクリスチャンは全員が奉仕の精神を持っていて、行動を伴う信仰生活を送っているかといえば、答えはNOです。聖書に書かれている内容を全て理解して100%の正しい行動をとっているクリスチャンはいません。

というより、できないのです。

ゴミ拾いの例をとっても、先に述べた衛生面での問題が生じるように、実質的に不可能な奉仕がこの世にはたくさんあります。奉仕活動をしたいと思っていても、距離・身体面・金銭面等の問題で行動に移せないことも往々にしてあります。

「あたりまえ」は、とても難しいのです。

そもそも、聖書は行動規範を示した道徳書ではなく「イエスが〜〜なことをおっしゃった・なさった」という証言集という側面があります。

 たとえば、大きな犬を見た人が、そのあまりの大きさに「熊に遭った!」と思ってそう証言したとしたら、その証言に意味はないのでしょうか?「熊に遭った」と思うような何かが起こったのだと解釈して、状況を推測する手掛かりにできるはずです。
 その姿勢は、奇跡の記述に関しても同じです。それを記した人は、確かに何らかの常ならぬ体験をし、それを今私たちに残されているような形で書き残した。そしておそらくその体験は、それ以外に書きようのない出来事だったのでしょう。その意味で、奇跡の記述は「事実」かどうかにかかわらず、「真実」だと私は思っています。

『イエスはなぜわがままなのか』岡野昌雄

以前別の記事で「クリスチャンは本当に、右の頬を打たれたら左の頬を差し出すのか?」というクリスチャンへのあるある質問に対して「警察に突き出す」「両頬回し蹴り」等の答えをご紹介しましたが、これはすぐ目の前の「木」を見ている問題に対して、同じ「木」の文脈で回答しているに過ぎません。「目には目を、歯には歯を」という教えの通りです。

私たちクリスチャンが聖書を読む上で留意しているのは「森」を見ることです。

 奇跡に限らず聖書に書かれていることは、その証言が指している先の真実を見せるための表現である。だから指そのものにばかり気をとられず、それがさしている先を見るようにする。

『イエスはなぜわがままなのか』岡野昌雄

「木」を知り「森」を想像する=証言の先の真実を「解釈」することによって、自分がどのように行動すれば良いかを一度立ち止まって考える機会を得られます。空き缶を拾うまでには至らずとも「自分は道端にゴミを捨てないようにしよう」「空き缶はリサイクルに出そう」などと、自分自身の振る舞いを見直すだけでも「あたりまえのこと」を「あたりまえに」行うことにつながるのではないでしょうか。


『アンパンマン』で雙葉の校訓を紐解く

もうひとつ、こちらも「???」な聖書の一文をご紹介いたします。

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