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若者を「まちづくり」で潰さないために

わたしが所属するような地方の大学では、ゼミ活動・フィールドワークを通じて「まちづくり」に取り組む機会が数多くあります。そういった活動がきっかけとなって、卒業後もその活動を継続・発展させようとする学生も少なくありません。しかし、その多くがあたかも「地域コミュニティによって潰されている」ような現状を目にすることがあります。

前回述べたように、地域資源に関心をもち、その普及や活用に取り組む若者は非常に貴重な存在です。「彼(彼女)はまちの為に熱心に活動している」という評判は、地方ではあっという間に広がります。「大人たち」は熱心な彼らに様々な機会を提供すべく、やはり熱心に地域の様々な活動やそれに取り組む人たちを紹介し、相乗効果が生まれるように働きかけるという場面に頻繁に出くわします。

誠実で真面目な若者は、そのような機会を提供してくれた大人に感謝しつつ、様々な地域の集まりに出向き、自分の思い・アイディアを発表し、称賛を受け、地域コミュニティのネットワークを拡げていきます。と、このように書くと「何が問題なんだ」と感じられるかも知れません。しかし、ここには決定的に欠けている要素があり、地域コミュニティとの接続(地縁)に疲れた若者が潰れていくということが起こっています。ネットワークを拡げても何も具体的な動きにつながらないばかりか、大人たち同士が若者のアイディアの主導権を巡って勝手な綱引きをはじめて、若者は間に挟まれて疲弊し尽くすというということすら起こります。

先に結論を言ってしまうと、彼らの夢を実現するための「具体策」を大人たち=地域コミュニティは提供できているのかを厳しく点検する必要があると感じています。ここには「まちづくり」に対するイメージの世代間ギャップが大きく影響しています。

実際、わたしの研究室に相談に来る学生の話を聞くと、彼らの能力的にかなり無理のある取り組みを、資金や人手などの協力無しにただ「応援/叱咤激励」しているだけの例があったり、複雑な工程管理が必要な作業にもかかわらず管理手法を学んでいない学生が孤軍奮闘していたり、明らかに法人化した方が良い「事業」であるのに周囲の大人たちがそれを止めている例すらあります。彼らを独り立ちさせたくない、自分たちが関与し応援しつづけられる存在でいて欲しいというパターナリズムの存在もそこには見え隠れします。

消滅可能性が指摘されるような地方においては、「まちづくり」は緊急性が高く、着実に具体的な成果を挙げ、失敗も許されない極めて高度な「事業」です。「まちににぎわいを取り戻す」「笑顔が溢れるまちづくり」といった曖昧な美辞麗句ではなく、交流人口○%向上→関係人口○人創出→定住人口○%増加といったKPI(重要業績評価指標)を定め、四半期ごとに評価・計画の修正を行って推進するようなものになりつつあります。

若者にとっても、自分たちがこれから数十年過ごすまちの行く末は、人生と直結した課題です。「大人たち」は自らが経験した経済成長と人口増加を前提とした「にぎわい」をもう一度取り戻すといったまちづくりのイメージを漫然と抱きがちですが、そんな悠長な(そして現実的ですらない)ことを言っていられないというのが、「まちづくり」に取り組む若者たちの本音なのです。以下の記事でも強調されているように、仕事があり暮していけるかどうかが重要であり、「にぎわい」「笑顔」はそこから生じてくる付随的なものでしかないからです。

地域の大人たちは、従来の牧歌的なまちづくりのイメージを捨て、若者たちに選ばれるような、実現のための具体的なヒト・モノ・カネといった資源=リソースを自らが提供できているのか改めて確認する必要があると思います。その環境が整うまでは、わたしも相談に訪れる若者たちに「いったん地域を離れて、都市部などの平場に出てスキルとネットワークを構築した方が良いよ」と助言し送り出すことになるでしょう。「地縁」は年齢と経験を重ねた大人にとっては頼りになる存在ですが、そうではない若者にとっては自らを縛る鎖のような働きもします。全ての人にとってそうであるように、彼らもそして私にとっても「時間」は有限で、他者のためだけに浪費することはできないのです。

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