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誰かの死を意味づけるということ

2004年のインドネシアのスマトラ沖地震では、当時の人口26万人のうち、約6万人、おおよそ1/4の人々が亡くなっている。
あまりにも多くの人が亡くなった結果、その土地にもともとあった紛争は、地震の後消滅した。その土地のイスラム教徒の人々は、神様が地震と津波をもたらし、それによって紛争を辞めさせてくれたのだと考えている。
今インドネシアに行くと、街中の至る所に、神が津波をもたらすイメージのレリーフを見ることができる。
それは、私が日本からインドネシアに行く前に、インドネシアの人々が災害と復興について持っていると思っていたイメージとはかけ離れたものだった。

上記はインドネシアに行っていた先輩アーティストからの情報である。
自分で確かめてないので、真偽の程はよく分からない。

その話を聞いた私は
「死を意味づけることができれば、遺された人の回復も早いですよね」
というようなことを言った。そういった目的のために宗教が存在するのだろうとも思った。

私の祖母が亡くなって3ヶ月が経つ。
アパートの片隅に設置した祖父母の仏壇に毎朝手を合わせる生活も3ヶ月目を迎える。
私は、祖母が亡くなってから明らかに自分のメンタルが強くなったと感じている。
というのも、何度も何度も仏壇に手を合わせ、祖父母のことを思い出し、その成仏を祈るうちに
私を心から大切に想い育ててくれた存在がかつて居たことに対し常に自覚的でいられるようになったからである。

死者が辿るプロセスは、忘却ではなく同化である。

上記は、最近観たギャスパー・ノエ監督作品、映画『VORTEX』のセリフである。
これもうろ覚えなので、もっと違う言い方だったかもしれないが、これに近いニュアンスのことを言っていた。

そのセリフを聞いた時、今まで亡くなった大切な人たちは、私と同化しているのかもしれないと思った。

死者は、亡くなった瞬間から声を持たなくなり、如何様にも解釈可能な存在となる。
もしかしたら私は、死者を自分に都合のいいように身勝手に解釈し直しているだけなのかもしれない。
しかしまた同時に、それの何がいけないのか?とも思うのである。
再解釈は何かを変質させてしまうかもしれないが、遺された者はそれしかできないし、またそうすることが遺された者たちの責務であるとも思う。

この世界には実は意味も目的もないのだけれど、生きている者たちは世界に意味付けをしないと生きられない。
それをするために生きているとも言えるし、それによってより生を謳歌することができる。

並行した同じ時間を歩むことは二度とできない。
けれども、彼・彼女らは、私の頭の中で、常に私と共に在り続けるのだろうと思う。
過去は変わらないが、遺された者の頭の中で、死者は変容する同じ時間を生きるのではないだろうか。

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