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20230612日記(それは所作か表現か/YOASOBI「アイドル」を聴いた。)

はじめるよー

これは作曲家とボーカリストの2人からなる音楽ユニットYOASOBIの楽曲「アイドル」を聴いた時に、僕が感じたことを書くための日記なので、まずはこの日記の中で扱われるアイドルという概念の整理の為に、M-1グランプリ2018から話を始めさせてください。

漫才という演芸

M-1グランプリは、吉本興業とABCテレビが主催する漫才コンテストで、結成15年以内のコンビ、ユニットに参加資格があります。2001に第1回が開催され、中断を挟みつつ現在も毎年開催されている大会です。

僕はお笑いにあんまり興味がないので全然見てなかったのだけど、清竜人主催の『MUSIC SHOW』を見に行った時に、ミュージカルのゲスト出演者として当時M-1優勝直後の霜降り明星(コンビ名)粗品(人名)がサプライズ登場して、まったく知らない人が大歓声で迎えられていたから若手2.5次元俳優か何かか……?と思ったのをきっかけに、芸人を把握するためにとりあえず予選動画全組分と決勝は毎年見ることにしています。

そういう温度でこの競技漫才の大会を見ていて印象に残ったのが、2018年から2020年までの3年間、連続で決勝に進出した見取り図というコンビに対する審査員の講評でした。以下、審査員コメントを抜粋。発言ママではなく多少整えてるので、漫才そのものと実際のコメントを知りたい場合はamazon prime videoにあるから見てください。

上沼恵美子「前半の笑いが古いです。私達がやってた頃の懐かしい漫才」
松本人志「そこまでウケてなかったかな」
塙「横(相方)の意識しかない内容。縦(観客)を意識できると立体的な漫才になってもっとよくなる」
オール巨人「あとで回収するネタ振りが多すぎてそのままだと観客が一歩引く。1回あたり今は3つのところ、2つくらいでやったらもっと回収までを縮められてよかったのでは」

M-1グランプリ2018 見取り図の漫才後の講評 最終順位9位

松本人志「ブーツにずっと裾が上がってるのが嫌やったな」
ナイツ塙「すごい細かいことを言うならば、手の動きがちょっと僕は気になっちゃって。手がすごい動くんです漫才の最中。髪の毛かきあげるのはしょうがないですけど、鼻をすごいいじったりとか。なんかすごい細かいことなんですが」

M-1グランプリ2019 見取り図の漫才後の講評 最終順位5位

上沼恵美子「ネタがわかりやすい、盛山に落ち着きが出た」
中川家礼二「後に引きずりそうな噛み方をしたけど、引きずることなく持ち直して、漫才全体も尻上がりに面白くなっていった」
立川志らく「喋りの漫才と動きの漫才のバランスがものすごく良い。1年でこんなに進化するんだと。よっぽど陰で努力してきたんだなと」
オール巨人「細かいところまで笑いがあって、余裕がある。もう少し見ていたいと思わせる。劇場での漫才もよく見てるけど普段から良くやっている。ふだんからの積み重ねが、こういう余裕と良い漫才を生む」

M-1グランプリ2020 見取り図の漫才後の講評 最終順位3位

僕が何を面白いと思ったのかというと、漫才が思ったより古典演芸と地続きのものとして評価をされている点でした。

M-1は審査基準として「とにかくおもしろい漫才」の1点のみを掲げていて、見取り図が初めて決勝進出した18年は確かにネタの構成だけを評価されていました。しかし19年の評価は面白さについては一定の評価をした上でコメントは主に舞台上での所作についての言及で、20年はそれらが統合されて見やすい漫才が完成したことへの評価。審査には日本の演芸における伝統的な徒弟関係に基づいた守破離の概念が援用されていて、審査員たちは師匠として振舞っていることにちょっと驚いたんですよね。

現在の漫才師に基本的に直系の師匠はいなくて、それはダウンタウン等を第1期生として始まった吉本興業の専門学校NSCの設立、内海桂子好江を師匠としたウッチャンナンチャンが弟子としての修行を現代的でないとして拒否したこと、素人芸で一世を風靡したとんねるずなどに端を発する、と言う話は小学生の頃に読んだ永六輔の新書に書いてあったので、知識としてはありました。

けれども師匠のいない芸能が具体的にどのように成立しているかについてはちゃんと把握できてなかった。だから、守破離の守の初歩の段階、舞台上での身振りなどの所作を学ぶタイミングがなく、最も有名な大会の決勝戦に至ってようやく審査員がフォローする構造をしているとはM-1見るまで思い当たりませんでした。

もちろん、漫才師は自分たちだけで漫才の舞台を作っているわけではなく作家や演出家が存在します。しかし、それらのスタッフはあくまで興行を共に作り上げる仲間なので、演芸としての質を上げる為の修行は漫才師自身だけに任されていて、なおかつ、演芸として昇華したところで、観客にとって見やすくなると言う効能はあっても、漫才師が提示したいお笑いのコアが磨かれるわけではないように見えます。

漫才師は、自分が面白いと思うもの、守破離の離だけを自己表現として握りしめていきなり舞台に立つことができる。それは観客のリテラシーの異様な高さに支えられている。テレビを通じて観客を育てる努力が継続的に行われた結果、何処を笑えばいいのか、何処に目をつぶればいいのかをプロパーな観客側が判断できるから新しい笑いは発明され続けている。さらに広い観客に届ける価値が、賞レースを通じて客観的に評価された時、あるいは漫才師自身がその必要を感じた時に初めて、演芸としての立てつけが後から成される。

新人お笑い芸人が所作の身につけを後回しにするのには以上の構造があるのだけど、構造上はともかく、思想としては松本人志の影響が大きいようです。舞台上で無頼にふるまっても自分のお笑いを受け止めてもらえるのはかっこよいものとされる感覚。見取り図の盛山は鼻をいじることを注意され、その癖を1年で完全に消しましたが、慢性的な鼻炎を抱えている松本はカメラが回っていても平気で点鼻薬を使用します。見やすさに寄与しない行動が、それでもなお評価される笑いがあるという自信として捉えられ、吉本を目指すタイプのお笑い芸人は松本に感化されていきます。

しかしその松本も演芸の所作を無視しているわけではなく、隣に立つ浜田雅功のアメカジコーデとのバランスを考えて、一般的な漫才の衣装であるスーツを着用し、漫才におけるツッコミ、激しく頭を叩く行為が暴力的に見えないようにするために髪を短く刈り込んで金髪に染め身体を鍛えています。むしろ細心の注意を払ったうえで何なら破ってもいいのか、守破離の破を体現する漫才師であることは、この前バラエティ番組を見ていたら自分で言っていました。なんか書いててハンター裏試験みたいな話だなと思った。

ここまで書いてきたことから僕があなたに伝えたかったのは、守破離を逆行する演芸である漫才の入り口に立った演者が最初に持つ意識についてでした。提示した新しい笑いが本物なら、それ以外の所作は重要ではない。いつかテレビスターとなった時には更新が必要とされるものの、十分に理解力のある観客が育っている環境がある為、そこを目指さなければ特に改める必要がない。「等身大の自分でマイクの前に立たないのは嘘だ」という考え方。

アイドルという芸能

今日したい話の入り口の少し手前にたどり着きました。ここからはアイドルの話が混ざります。アイドルは漫才と構造が似た、師匠のいない芸能なので、漫才と対応させることで理解しやすくなる部分があると信じて話をすすめます。どっちも出雲阿国が祖なわけだし。

漫才の「新しい笑い」に対応するアイドルの守破離の離は「新しいかわいい」ということになるでしょうか。もし漫才と同様の環境があるなら、かわいいさえ表現されていれば所作を身に付けるのは本当に売れた後でいい、ということになるはずです。

しかしそうではない。僕は直感的にそうではないと感じる。それはなぜなのか。この整理を行う為には、アイドルにとっての所作とは何なのかを考える必要があります。

伝統芸能における用法を辿って、アイドルに適用できるものをさがすと、歌舞伎の「所作事(しょさごと)」にたどり着きます。
所作事は、長唄を伴奏にして歌舞伎役者が所作(ダンス)を行うもので、歌とオケがあってきらびやかな衣装をまとった演者が踊る形式、と言い換えれれば、口パクで踊るアイドルそのまんまです。所作事はダンスであると同時に所作そのものでもあって、舞踊の中に織り込まれた日常動作が非日常的な輝きを持って演じられることそのものを楽しむ、そういった形式になります。

新しいかわいいを表現する為に所作の洗練は必須ではないのに、アイドルのライブは観客がアイドルの所作全てを楽しむ所作事の形式をとっている。漫才師にとってはテレビの向こうの観客にまで笑いを伝える為のオプションに過ぎない所作が、アイドルにとっては目の前の観客にかわいいを伝達する為の最も安易かつ効率の良い手段となってしまう。

アイドルは未熟を愛でるものである、というステロタイプはこのようなところから発生します。なぜなら未熟な所作はかわいいからです。笑ったという結果があって笑いが成立するように、かわいいという受容があるとかわいくなってしまう。

アイドルは競技ではないので、新規性のないかわいいであっても表現としては成立します。だから、アイドルが漫才師と同じ師匠のいない芸能である限り、未熟なアイドルは誕生し続けます。人間は必ず未熟な赤ん坊として生まれてくるからです。

日本のアイドルを参照しアップデートを目指した韓国のアイドルが、デビューまでの長い下積み期間を用意する研修生制度をとっているのは、この構造上発生する誤解を防ぐ為で、未熟なアイドルを観客の前に出さないことによって、未熟だけを愛でる観客を育てないようにしています。それが欲しくなったら隣国にいる、という地理条件によって成立している戦略です。

韓国は新しいかわいいの提示にも余念がなく、例えば数年前に提示されたガールクラッシュ、女が惚れる女というかわいいのコンセプトは一定の成果を上げているので、現在はかっこいいがかわいいのは当たり前だからむしろガールクラッシュと名乗ってるのはちょっとダサく感じるところにいます。このことによって韓国のアイドルは、日本のアイドルが陥りがちな、パフォーマンスの洗練を脱アイドルと捉えられてしまう現象も回避しています。かっこいいパフォーマンスはかわいいからです。

YOASOBI「アイドル」

漫才の、毎回同じ内容で言い合いをする形式はどうみても演劇の一種だし、演劇を演じるのは俳優です。しかし演技は嘘、虚構なので、漫才師は漫才を行う時、俳優を名乗ってマイクの前には立てません。「等身大の自分でマイクの前に立たないのは嘘」だからです。

対してアイドルは俳優を名乗ることもできます。かわいいの為なら、作為的な所作の積み上げがいくらでもできるからです。そのことを表した台詞が、YOASOBI「アイドル」を主題歌としている作品『推しの子』の中にはあります。

「アイドルは偶像だよ?嘘という魔法で輝く生き物 。嘘はとびっきりの愛なんだよ?」

赤坂アカ/横槍メンゴ『【推しの子】』1巻

アイドルがつく嘘もまた所作で、アイドルはかわいいの純度を高める為ならいくらでも嘘をつくことができます。いま検索したらつくは排泄を意味する言葉の転用なのでアイドルはうんこしないからついた嘘は全部なかったことになる。うんこだってうんこミュージアムが流行ってるくらいかわいいの範疇だ。

アイドルは嘘で出来ている。虚構を、フィクションを嘘と言うならそれは常に事実で、アイドルの所作を見る時、所作そのものはかわいいの伝達手段でしかないはずのに、観客は歌やダンスや表情や直接会話した時の対応を評価することしかできません。

「アイドル」は呵責なく嘘をつきつづける天性のアイドルだったアイの人生を表現した曲で、YOASOBIはアイドルではありません。2人組だけど漫才師でもなく、楽曲制作者とボーカリストのユニットで、クリエイターかつパフォーマーです。だから嘘としての所作を行う必要はなく、自らが表現すべきものを表現できるはずです。しかしこの曲にはポップミュージックが持つ最大の嘘がその内側に含まれています。

何万人もの人間が同時にポップミュージックのライブを見る時、その体験はある程度同時に届くものですが、それはテクノロジーによって補正されているからです。視覚効果は光の速さ、床を伝う低音は空気中の100倍の早さで伝達し、低音と概ね同時に届くように各所にスピーカーが設置され、それぞれのスピーカーまでは電線や光ファイバーを介して信号が送られます。観客の発声は演者と同期しないけれども、視覚と低音は概ね同時に届く。だから海外では観客と演者の同期は概ねダンスの形をとり、シンガロングは演者に届かなくていい非同期的連帯として、コール&レスポンスは曲中ではなくMC中に行われます。

テクノロジーの力を借りないジャンルだと、狭いサロンでの演奏を想定されたクラッシック音楽はともかく、例えばブラジル音楽のサンバはパレードの前後で音が遅れることやタンバリンを左右に振った時に音がズレること自体をビートのうねりとして楽しむし、同じくパレードを行い競技音楽でもあるマーチングバンドは、審査員席を想定観客として、同時に音が届くようにバンマスとの距離によって発音タイミングを調整します。

このような前提で「アイドル」を聴いてみます。すると、この曲のトラックにはファンのコールと思しき声が入っていますが、ファンのコールが同時に演者に届いているように感じるのはアイドルが日常的についている嘘のひとつであることに気づきます。ポップミュージックのbpmに対して音速は遅すぎるにもかかわらず、開催されなかった東京ドームでのアイのパフォーマンスを想定されているであろうこのトラックに含まれるコールは観客の脳内にしかないタイミングで鳴っています。つまりアイによる嘘です。

演者が嘘をつき、その嘘を観客が受け止めるという形で調整する特徴が日本のポップミュージック全般に見られるのは、一つは日本人がメロディで同期するのが大好きで車座になって歌う文化があったから。もう一つは演者をアイドルとして扱うことが好きだからだと思います。今なにも調べずに書いてるから信じないでね。

しかし先ほど言ったように、YOASOBIはアイドルではなく、作りこんだトラックと技巧的なボーカル表現を届けるユニットです。だから「アイドル」に含まれるコールがアイによる嘘を表現されていたとしても、僕は楽しく聴くことができません。それは僕がそのようにポップミュージックと関わりたいと思っていないからで、楽曲の瑕疵ではないと思います。

やっと僕自身の感想まで辿り着いた。僕は楽しく聴けないなと直感的に感じた理由をまとめるだけのことにえらく時間がかかった。

「愛してる」

アイドルのライブを見に行く時、僕はアイドルのライブで鳴っている音で踊りたいという不遜な欲求を抱えている。恥ずかしいことに、ここまで書いてやっとはっきり認識された。アイドルの表現するかわいいを僕は好きだが、アイドルのつく嘘を平気で受け止めていたわけではなく、アイドル以外に同じ嘘をつかれることを受け入れる余裕はなかった。

ビートを感じて踊っている時、アイドルの周りを漂う嘘が薄くなる。そんな気がする。きっとその瞬間の為に僕はそこにいる。だからこれからもアイドルを見に行く。

それを確認するための体験として、僕は「アイドル」を聴いた。

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