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20240112日記(映画「カラオケ行こ!」)見た。

 仕事帰りに和山やまの漫画『カラオケ行こ!』を原作とした同名映画を見た。金曜日はできるだけ映画を見て帰るようにしているのだけど、なんか気分が乗らなくて最近全然見てなかったから久々。

▲あらすじをポスターに頼る

 ヤクザの狂児と合唱部の聡実。原作はおおむねこの2人の関係で話が完結するが映画はそうではない。映画の画面はメインキャラクターだけ精彩に描かれたりすることはなく、画角の中の人間を平等に写すから。

 ということで印象に残った人物の話をすると、聡実の合唱部の後輩、同じソプラノパートを歌う2年生の和田がとにかく可愛かった。単に構造的に末っ子だからなんだけど。マンネを愛でる気持ち、俺にもあったのか。
 原作からより強調された要素として、経年によりやがて失われる正しさを眩しく思う視線の連鎖がある。全然正しくない立場としてのヤクザの狂児から、無敵のソプラノボイスを失いつつある思春期の聡実へと作中で続く連鎖の最後尾にいるのが和田で、和田はとにかく正しいことを言う。子供の論理でもって。和田が原作でもそういうやつかと言えばそうでもないんだけど。

 見れて良かったなーと思ったシーンは、狂児の父が無茶苦茶な書き順で出生届の名前を書くところ。書字は映画のような時間芸術が存在しない時代の時間芸術で、書き順にある程度のコンセンサスがあるから過去に書かれたものから筆の運動を解凍して取り出せる。それを無視する父を持った狂児は最初から連鎖の外にいて、だからこそ聡実との出会いは狂児が連鎖の中に自分を位置付ける機会として本当に得難いものだったんだなと思えた。書き順滅茶苦茶な描写は原作にもあるんだけど、僕は漫画を漫画が求めるタイム感で読む能力が低いのでギャグ的な絵面としてしか受け止められてなかったから、映画で見れてよかった。

 映画でないものを映画にする為に導入されたサブプロットを発見するのは原作のある映画を見る時の楽しみのひとつと言える。映画を見ている最中のスマホと、映画部の暗幕の外にあった窓のフレームは同じものだと思うけど、それを意味としてパッとここに書けるかというとできないので、まだこの映画のことをしばらく考えるんだろうな。正しい人のはずの和田が間違っていることになってしまう映画部の部室についてなんか言えそうな気もするけどまだ全然考えてない。そういう見終わった後に考えることはまあともかくとして、巻き戻せるものと巻き戻せないもの、大人としての観客が見たら完全に自明でも和田にはまだわからず聡実がこの話を通じて受け入れるものを眺める時間は、気恥ずかしくも心地よく、今日映画見に行ってよかったなーと思った。
 ところで狂児が3年連絡つかなかったのってコカイン星人への暴行で刑務所行ってたってこと? 連鎖の外に行ってしまった、ヤクザにすら見捨てられた人としてのコカイン星人、いらんシーンかと思ったら意外と根幹的だったな。

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