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自由の剥奪

私が小学4年生になる春。
模範囚として少し刑期が短くなった母が釈放され、帰ってきた。

今思えば、夫婦喧嘩が原因で収監までされたのに離婚しなかったのは不思議でしかないが、とにかく再び家族4人での生活が始まった。

地元では周りの目もあって生きづらいだろうということで、私たち家族は父の故郷である関東に引っ越すことになった。

ほぼ行ってないようなものだったし、クラスで浮いていたのもあって思い入れも何も別になかったから

むしろ喜んでいたように思う。

やっと新しいランドセルを買ってもらえたのもあり、4年生からはちゃんと学校に行って、友達を作るんだとルンルンだった。

新しい小学校は山の頂上にあった。

関東なのに随分田舎だなと思いながら毎日階段をかけ登ることになった。

友達も出来て、ちゃんと毎日学校に行くようになった。

家が地獄になったから、というのもあるかもしれない。

母が帰ってきてからというもの、お酒を飲んでいない時は私が泣こうがお構い無しに勉強漬けにされ、お酒を飲んでいない時はひたすら理不尽に怒られるか、愚痴を聞かされるようになった。

小学3年生までまともに勉強なんてしてこなかったのに

いきなりの怒鳴られながらの勉強漬けがストレスでしょうがなかった。

一生酒で潰れて寝てろと思ったほど。

ストレスすぎて、自分で髪の毛をブチブチと無意識に抜いてしまい、最終的には脳天がハゲたこともあった。

今思うと、何度も父が助け舟を出していた。

母に対し、お前は勉強ができる子が欲しいだけやろうと言い放ち、私と妹に無理にやらんでいいんやぞと言った。

1年ちょっとが経ち、弟が生まれたことをきっかけに、ついに妹が勉強をやめると言った。

母は、弟の面倒を見ることを条件に許した。
それから妹は、弟にとっての「小さいお母さん」になった。
ミルクからオムツ替えから、毎日学校から帰ってきたらほぼ妹がやっていた。

ハゲるほど嫌だったくせに、私は結局やめるとはいえなかった。
母の理想の子供でいたかったから。
私までやめると言ったら、母はどうなってしまうのかと不安だったから。

ただの意気地なしだった。

それからも。私にも妹にも、遊ぶ時間はなかった。

遊びに行くと不機嫌になる母を恐れ、いつしか2人とも友達と遊びたいとは言えなくなっていった。

私は勉強漬け、妹は子育て

傍から見れば不思議すぎる光景だった。

小学5年生の中頃には、私は学年トップレベルの成績を誇るようになった。
小学4年生の初めには小学1年生レベルの学力もなかったことを思えば、母の教育方法は間違ってなかったのかもしれない。

何枚100点のテストを持って帰っても、母に褒められることはなかったが。

小学5年生の冬、いびつな夫婦は離婚を決意した。

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