建築の芸術性

建築は、日常に根付くものだ。
建築は、社会のためのものだ。

建築家の思うように作ることを非とする考えがある。
ポストモダン期に作家性と揶揄されたことで
設計者はいい面並べて自分の作品を正当化しているようにも感じる。
確かに、意味のわからない「モノ」は好めない。

しかし、建築空間の体験の中で、心躍らされることも多分にあるはずである。

建築が芸術であるべきとは言わない。
しかし、合理性利便性経済性を念頭に置いてしまったらあんなに大きな「モノ」が街に蔓延るようになる。

街中に「モノ」があるのと心躍る体験があるのとでは、自明である気がする。

それは、ファサード的な茶番ではない。
表層ばかり取り繕ういい面した建築には中身がない。

建築がどうあるべき思索しているうち一つの回答にたどり着いた。

「建築は人である」

peter zumthor の書籍:建築を考えるにおいて、
建築の身体という目録がある。
それに近しくも異なる。

建築は人である。

建築には顔がある
だから、建築の見た目はよくも悪くもなる。
建築には姿勢がある
だから、美しくも醜くもなる。
建築には肉体がある
だから、出来ることと出来ないことがある。
建築には声がある
だから、音を立てることも静まることもある。
建築には感情がある
だから、楽しくもつまらなくも感じる。
嬉しくも寂しくも感じる。

だから、建築は人である。

建築が本当に人なのかどうかの議論は不毛である。
ここで、言いたいのは、建築を感じる者と建築自身
は鏡の関係である。
建築を感じる者は人である。だからこそ、その人がどう思うかで建築は変わる。

そういった視点で街中を見ると都市は
高身長高学歴高収入の薄っぺらい美男美女で溢れている。各所には、個性的な人柄の者が点在している。
また、若く逞しい者もいれば、いい歳の取り方をした高齢もいる。

一方で、無能な設計者たちがこぞって郊外に建てた者は、まさに量産型のどこにでもいる普通の者である。彼らの中枢を担う公共施設は、年老いた高齢者である。
近年は、随所に若い活力のある者が公共を支えている者もいたりする。
田舎に行けば、優しそうなおじいちゃんおばあちゃんに出くわしたりする。

建築は人であり、社会そのものを表している。
建築が先か人が先か
それはまさに、鶏が先か卵が先かの問いに等しい。

建築は人であるという視点は、
建築家たちが懸命に育てた未来を変えるかもしれない
若者を「作家性」という鎖によって縛り上げている。
この世に心を躍らせてくれる人がたくさんいるように心を躍らせてくれる建築も沢山ある。

しかし、建築は芸術じゃないという否定的な意見は、
ゼロトレランス的視点であり、古すぎる軍隊的思想である。

建築は人である。建築は人を写す鏡であり、
人の心変わりのように多面鏡的である。

同調圧力的な日本社会にどうか
個性と多様性を重んじることを願うばかりである。

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