ゲームとは「対話」であるべき

FF14は徹頭徹尾ゲームであることを忘れてはならない。リムサ・ロミンサはメタバースでもないし、ヒカセンはリアルな自分の分身ではない。
とにかく言いたいのは、オンラインゲーマーのみならず、最近であれば推し活だとかオタクがちな趣味に傾倒ならぬ没頭する人々に言いたいのは、「もっと木を見て森を見て蝶を慈しみ川のせせらぎを聞いて太陽を浴びて本読んで映画見て飯食って寝ろ」という一言である。
簡単に言うと、ゲームとネットやりすぎ、である。
ゲームには寄り掛かってはならない。
創造物であるゲームとは、すべきことがある。

ゲーム並びにコンテンツを体験するということは、どういうことか?
一言で表すなら「作り手との対話」である。
作者が伝えたいこと、それをどう受け取って、何を思ったか。それだけだ。

FF14ならびにオンラインゲームとの「対話」とはどいったものか。
複雑なことがあるとすれば、創造者が複数によって成り立つ組織であることだ。そこには会社然とした「事情」であったり、「株価」みたいな要素が見えたりする。これは対話をする上では邪魔なことこの上ない。しかし逆に言えば、モノがでかいゲームをするということは、もうそういうことだ。事情に振り回される覚悟を持って挑まなければならない。
つまり、覚悟が足りない。口を開けて待ってばかりのコンテンツのフォアグラにはFF14ならびにオンラインゲームは楽しめない。2週間に1回のパッチ、トキシックな野良、居なくならないチーター、つまらないストーリー、エドモンド本田、口を開ければすぐやってくる"これ"らは、そんなもの全て「手前」の話である。いや、これらに文句を言うなというわけではなくて、時には自分が楽しめない理由を徐ろに吐いていい。そしてむしろコミュニティはこれらの話で持ち切りでいい。

ただ、"これ"ではないだろう?
オンラインゲームにのめり込んだあの日味わった確かなものは、これではないだろう?
オンラインゲームとの「対話」は他とは違う極上な、踊り狂うような快感があったはずだ。それを忘れてはならない。
つまりプレイヤーは「真髄」を味わいにいかねばならない。これが「対話」の末獲得できる、私たち消費者が得られる唯一の肥やしだ。開発者たちが苦しみながら生み出した「それ」を、垂れた一滴を舐めなければならない。

「対話」は自分の中で時間をかけて、時には反芻もして消化すべきであって、安易に答えを見るべきでもない。昨今のタイパ、SNS時代はこういった意味ではコンテンツを消化するのがどんどん難しくなってきていると思う。
コンテンツを味わうという行為は「自分」が必要である。人間誰しも何かが蓄積されていて、その物語は自分の感性のどこに何が響いたのか、そういった主人公としての「自分」が必要である。
無論一方で絶対的な評価、メタスコアといったものはあってもよい。人類が長年培ってきた面白さの集合は発見されつつあって、その達成度というのもコンテンツには重要である。だがやはりそんなもの、今あなたが体験している時空には関わってこない。心底どうでもいい。あなた自身がいかに「対話」をして、そこには「真髄」があったのか、そして味わえたのか、またもや何味だと感じたのか、それが重要である。

ここで当然生まれる疑問が、振り返って「自分」はそもそも居るのかどうかである。無論、自分なしに対話は不可能である。しかし、しかしこの事実は特にいわゆる現代人的には全く理解されていないと考えている。コンテンツが勝手に自分を楽しませてくれると、全く持って勘違いしている節がある。
はっきり言うが浅い人間には深い物語は楽しめない。モノを産み出したことがない人間には産みの苦しみは分からない、これは残酷だが事実である。
しかしモノを産み出したことがなければコンテンツを楽しむことはできないのか?これは当然否である。むしろ産み出したことがなくても楽しめるのが現代コンテンツの良いところだ。つまり言いたいのは、そこで消費者に徹するのか、それとも、産みに苦しみに苦しみ頬は痩せこけ鬱にもなった山口一郎の気持ちに一ミリでも寄り添って新宝島を聞くかどうかだ。(私はサカナクションが最も創作にストイックに向き合っている集団だと思うからこう例えたが、ここは自分の好きな作者と作品に置き換えればいい。)
つまり覚悟のある「対話」を試みてほしい。そちらが狂うというのであれば、こちらも狂わねば。
そして、そうであれば崇高な「対話」に臨む「自分」を磨く必要がある。

ではどう磨くか?
ここで冒頭の文句をもう一度言うことになる。「もっと木を見て森を見て蝶を慈しみ川のせせらぎを聞いて太陽を浴びて、本読んで、映画見て、友達と遊んで、飯食って寝ろ」である。
この結果は、例を出すこと自体陳腐だが、言うなればバッハの旋律を夜に聴いたことで何が起こったのかということだと思っている。
そしてあえてこの対義語を記述しておく。「暇あればTwitterとまとめサイト見て、ソシャゲを毎日欠かさず梯子して、Netflixで分からなった所はすぐ考察調べて、夜は対人オンラインゲームでキチゲ溜めて、土日はカーテンも開けず朝から晩までゲーム三昧」である。
もうこんなこと最早胃と胸が痛いが、ダメに決まっているのだ。我々はこの状況からいち早く脱する必要がある。
そうだ、我々だ。こうしてあえて書いたのは、自戒であり呪である。"こう"なるのは本当に簡単なことで、我々は今、常にその魔の手に迫られ生きている。
ここで"そう"ならないためには、チベーションを高く保たなければならない。ふと出会う「対話」のチャンスに、全力の自分をぶつける用意を。
創造者が散りばめた細部に宿した神一体全体に全部気付くために。狂う準備は出来ているか。

要するに、ゲームに依存すべきではない。
ゲームは、人生における無数の「対話」のチャンスのうち一つであるべきだ。
そして「対話」の際、いかにレベルの高い「自分」を用意できるかが、人生を楽しむことそれ自体だ。
そこまで用意した上の「対話」が裏切られたのであれば、創造者がカス、これで終わりでいい。そして次を探すべきである。さらなる最高の「対話」を臨むべきである。

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