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逃走犯はシートベルトを締める ~大後編

 前回投稿「逃走犯はシートベルトを締める ~しあわせの思考実験」が 創作大賞2022 しめきり時間切れ●●●●になって途中終了してしまいましたが、どのみち総集編的、備忘録的目的でもあったので「残分」をここに足しておきます。前編同様、随時書き足し方式で進行していきます。
 今後のトピックスは以下のような感じです…

☯その日本スゴイはフェアか?イチローは本当のところはどう評価されていたのか?
☯ゲーマーと歴史修正主義
☯日本にテーラー・スウィフトはいない。(ミスチルと甲本と元春と西村京太郎と)
☯除夜の鐘廃止とまことちゃんハウスとNIMBYと
☯ステンドグラスとクイズ王とエレクトーンで見る文化ギャップ
☯障害と個性、すべては連続的グラデーション
☯五輪とジェンダーと裸の王様問題を考える
☯あの裁判を掘り返す、プリウスミサイル、和歌山毒入りカレー、ゴリライモ…

☯結局、なぜリベラルは負け続けるのか?


さてさてさて
『ミステリと言う勿れ 』
加害者のほうにこそ治療をというくだりに対する「回収」をしてなかったのは痛恨の極みでしたのでまずはそこから…
せっかくですから「名調子」の引用も再度

あの…ぼくは常々思ってるんですが
どうしていじめられてるほうが
逃げなきゃならないんでしょう
欧米の一部では
いじめてる方を
病んでると判断するそうです
いじめなきゃいられないほど
病んでると
だから隔離して
カウンセリングして受けさせて
癒すべきだと考える
でも日本は逆です
いじめられてる子に逃げ場をつくって
何とかしようとする
でも逃げると学校にも行けなくなって
損ばかりすることになる
あいつにいじめられたよって
あいつ病んでるかもしれないから
カウンセリング受けさせてやってよって
みんなが簡単に射えるうになればいい
そういう考え方にみんながなればいいと思う

『ミステリと言う勿れ 』第二話より

AIのおこすデータの化学変化を疑似体感していただくために、いきなり次の引用をどうぞ…

刑務所というとこはね
更生するとこちゃいまんねん
悪人を鍛えるとこだ

山本集「日本のよふけ」1999 /7/26

どうですか? ケミストリーおきましたか?
「日本のよふけ」というのは、笑福亭鶴瓶氏がメインMCをつとめ、期間によって南原清隆氏や香取慎吾ちゃんがその相方についていたフジテレビの深夜番組で、タレント、元スポーツ選手、政治家、作家などいわゆる文化人でくくれるような方々をゲストに招いてお話を伺うという異色のバラエティでした。
  この山本集氏は元ヤクザの画家というまさに異色な存在でしたが、その彼が日本の「罰」「更生の手段」としては機能していないと言っているのです。それどころかよりタフなヤクザを鍛錬してしまっているのだと。
 こうした議論になるとそれでも「罰」は大事なのだと声を上げるひとたちがいます。そのこころは「被害者感情」なのだと。
 でもこの理屈はちゃんちゃら可笑しい。実名報道の可否の議論でも「加害者の人権に配慮して被害者の人権が守られないところに正義はない」などとと言う主張がマスコミ主導で聞こえてきますが、そもそも被害者の人権を踏みにじっているのはマスコミそのものです。取材という名の暴力で。
悲しみで憔悴しきっている人々に「お気持ちは?」とかわざわざ聞きにいく必要があるでしょうか?
 元NHKの堀潤氏は泣きの姿を撮りたいのがホンネとマスコミの下衆なホンネを白状しています。

 あと最近よくある、加害者の家族へのインタビュー。あれは新たな人権侵害といえますが、視聴者もあまり深く考えずに「まぁ加害者側だから辻褄合ってる?」などと流されがちなのを利用して少しづつ基準をズラし慣例化していくというマスコミの意図が見え隠れして恐ろしい。
 一番、優先されるべきは再犯を出さないこと。もっといえば初犯も出さないことではないでしょうか。

、NPO法人「SOMEC」という団体は性犯罪者の治療にとりくんでいます。日本人は精神鑑定なんてワードが出てきた瞬間に拒否反応を示す人が少なくありません。「罪を軽くしようってのか?」。もちろんそういう手段の場合もありますが、未来へつながる答えを得る有効なプロセスでもあります。
 そもそも日本は鬱にしろ依存症にしろ、心の病への関心や取り組みが遅れています。
 アメリカは日本から見ると元々の犯罪件数が多いのでなかなか見えにくいですが、犯罪を防ぐ様々な試みがされています。例えば死刑囚が不良少年を相手に実体験などを交えて説教をする機会をつくるとか。「割れ窓ブロークンウインドウ理論」のような研究はむしろワビサビとか言ってる日本でこそ生まれて欲しいような理論ですが、実情はむしろこうい心理学的な施策をそもそも日本人は軽視しているかもしれません。
 結局、犯罪を減らすことより、まずは悪人を徹底的に罰することだという姿勢はその時点で被害者の側に立てていません。
 死刑存置に関する論議もそんなノリです。「抑止にはならない」といくらデータで示しても、「そうかもしれないが、被害者感情が…」などと言います。でも抑止にならないものを受け入れている時点で被害者の側に立ってないじゃん…ってハナシです。
 最近ではオウムの件もそうですが、被害者が「事件の真相を解明できていないまま死刑が執行されてしまった」と嘆く声は度々聴きますが、報道されるだけでキホン的にはスルー状態です。やはり被害者に寄り添っちゃいません。
 死刑の場合は、抑止などの論議以前に「冤罪」の可能性を考えればシンプルに廃止すべきとなるはずです。
 かつてフジテレビ深夜の「1924」という番組で「死刑」がテーマとなった回には某漫画家二世のタレントが「冤罪くらいで廃止はない」と恐ろしい意見をしました。
 彼女に好意的に考えるとすると、冤罪でも最後にはかならず救済されてるから…と言いたいのでしょうか?
 前編に出てきたカニフィルターと統計リテラシーを動員して考えてみましょう。まずテレビなどで目にする「冤罪からの逆転無罪」は、無罪になったからこそ番組でとりあげられ制作されたのです。
 そしてどんな冤罪も最後はかならず晴らすことができるのかという問題ですが、成功例として番組で取り上げられてきたものの中にすでに判断の手がかりはあります。
 無罪を勝ち取った例はどれも「薄氷の勝利」の様相です。そのプロセスの中には単に運がよかった僥倖ではないのかというものさえあります。
 その根底には日本の司法制度が…

つづく
 






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