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横顔あるいは後姿

なんだか最近人の横顔に思うところがあって、その糸を手繰るべく更新してみようと思います。

テレビゲーム

幼少時代、自分がプレーすることもまぁまぁ好きでしたが、それよりも自分以外の人が楽しんでいるのを見ているほうが何倍も楽しかった記憶があります。いいタイミングでおやつの封を開け、氷がなくなってきたら新しいのをいれて三ツ矢を注ぐ。プレーヤーが万全の態勢でゲームを楽しめるように、というよりか僕が一分でも長くその空気を味わえるように、徹底して給仕の役を務めていました。兄弟でも友達でもそのようにふるまっていた記憶があります。
集中力、バイオリズム、人間にはムラがあります。長くこういう楽しみ方をしていると、次第にそのプレーヤーのコンディションというものがなんとなくわかってきます。こういったコンディションのムラをできるだけ平らかにするのも給仕の役割です。
よくやっていたのは、あえてヘタクソな僕がプレーをして、どうやったらそんなにうまくできるのか、コツを教えてもらう。でした。幼いころなので意図してやってないですが、プレーヤーの調子がいいとき、つまり集中力があるときは、僕の期待と相手の集中、この二者間で生じた熱が反射して部屋を覆い、一つの生き物ののように柔らかく密閉されるような感覚があって、このまま一つの生命体として生きれるのではないかという僕も相手も空間すらもよくわからないゾーンに入っている感覚になれたのです。逆にコンディションがすぐれないときにはそもそも相手から熱を感じられないので、そういうときはプレーさせてはもったいないというブレーキのような気持が働きました。二者間の熱の交換が大事なのです。

洗濯機

我が家ではたまに洗濯機を夜回すことがありました。
僕は洗濯機をよく見つめていました。ひょっとしたら洗濯機がこのアパートの一室のメインエンジン、生き物の心臓のような気がして、そっと見つめていました。今となってその視線はテレビゲームをプレーしている友人や、兄弟に向けられているものと変わりないように思えます。家族全員分の衣服がガタガタまわっている。生まれて物心ついてから「家族」とか「血のつながり」といった社会的観念がまったくもって希薄なもので、洗濯機の回る様を見て私は家族というものの輪郭を想像していたのかもしれません。できることならこの洗濯機を動力に、今夜出発してどこかに行きたかったことを記憶しています。星空とか。そしたら宇宙船ですね。家族という宇宙船。そうしたらぼくはもっと家族という社会をもっと理解できたかもしれません。友人とはフレンドシップ、兄弟とはブラザーシップでテレビゲームを通じ旅に出ていましたからその間柄にはすくなくとも家族以上に理解がありました。同志ときに師弟といった関係です。

ミスタードーナツ

つい最近、無性にポンデリングが食べたくなって、ミスタードーナツへ。
僕の二つ前に齢四十前後の男性が並んでいました。二枚のトレーにはぎっしりとドーナツが並べられていました。職人が窯の様子を見ているような険しい表情。身をかがめてケースに手を伸ばし、取り終わるとトレーのドーナツの個数をつぶさに数えていました。
この構図、僕の視線、ふと懐かしい感覚に陥りました。

当時の同志は、師匠は、弟子は、間違いなく今眼の前で家族のため、ドーナツ選びに集中している。日曜日の夕方のこと。
奥さんとの出会い、こどもの誕生、職場での昇進。君は僕の知らない時間を重ね、僕も君の知らない時間を過ごして互いに年をとった。ハハ、なんだかおかしいね。あんなにマリオカートに熱中していた君が、ぼくにステージ攻略のコツを堂々と伝授してくれた君が、ときにコントローラーを投げ出した君が、いまはあの横顔でドーナツを数えている。わかってはいるけど彼の熱は僕に向けられることなく、当時のようにどこかに行こうとはならなかった。だけど、君が今もどこかに行こうとしていることは僕にはよくわかったよ。ありがとう。

そんな思いを赤の他人に巡らせていたら後ろがつかえてしまって、焦った僕はついでにソーセージパイも買ってしまいました。

帰り際、両手にボックスを二個ずつ、計四個持って出口を目指す君の背中は広かった。またどこかで会おう。そして行こう。


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