熱情を語る信州の俳人*宮坂静生
グダグダと適当な言葉を並べて書くのは
苦にならない、というか、それこそ私らしい。
余白の美というような、
考え抜かれたセンスもなく、ただ書き連ねる。
言葉遊びといった風情もない。
それはもう重々わかっております。
だからnoteは千文字ちょっとで
締まるように決めたんじゃないの。
いえ、意識してはおりますけれど。
何か電波の無駄とか、言葉の無駄とか、
時間の無駄とか、そんな無駄なことばかりを
重ねたのが、私の本当の文章。
某ベストセラー小説家さんの本は、
何冊か読んだけど好きになれない。
天邪鬼のせいかも?
うまく言えないんだけど、
なんかひねくれた物の見方を
してしまいそうで、なんか頷けない。
安易な自己肯定感にも
つながりそうな気もして、ただなんか。
いや、その、心の移ろいとか、
世の中の折り合いとか、なんか複雑怪奇なものが。
でもそういうのが面白くて、うん、そうなんだろう。
自分も好きじゃないなぁと話した後に、
あの人が、
「なんで、簡単なことを難しく書くんだろう」
と、ただ話題のひとつに格下げした。
雰囲気を掴みかねて、
(好きだと思うんならそれでいいじゃん)と
取り合えず解読する私とは違って、
ちゃんと考察という自分のふるいにかけている。
あなたは理系でしたね。
そう、つまりそんな感じだから苦手。
難しいことを、平坦な言葉で
伝えることの方がずっと難しい。
つまり、そんな風に言いたかったの。
浅学菲才の身なれば、言葉も追い付かなくなる。
だって言葉は生きているから。
【 はらわたの熱きを恃み 鳥渡る 】
(今、ここで踏ん張らないと)いう出来事が
いくつも重なって、私自身がひとりで
頑張らなければというタイミングで、
この宮坂静生の句と出逢った。
鳥が飛んでいる姿は
ただの日常の風景のひとつ。
「鳥渡る」は、
大陸からやってくる鳥のことで、
秋の季語になる。
空を仰いでみた。
飛んでいく小さな鳥。
その情景に思いをよせて、
小さな鳥にさえある「はらわた」に焦点をあてる。
はらわたは内臓であり、力の源だ。
ふんばって立つ時に、どこに重心を置く?
泣くまいと思う時に、どこに重心を探る?
この句を読む人にとっては、
生きている限り続く葛藤を連想する。
ただ生きてるだけで、辛いことや苦しいことが
ページをめくるように目の前に差し出される。
「それね、解釈の違いがあって、
乗り越えられるから
試練がやってくるのではなくて、
乗り越えられない試練があるから、
神を頼れってことなのよ」
キリスト教系の学校で学んだ娘は、そう語る。
神を頼ったとしても、
現実的に手足を動かすのは
自分のこの肉体だから、
心を切り替え、脳をだまして、
「私は出来る」
「おもしろー」
「やってみようじゃないの」
とか、いろんなセルフ洗脳しながら、
腹に力を込めるものじゃないかと思う。
そんな、どの時点の自分であっても、
間違いなく投影できる句だと思う。
「がんばれ」とエールを送られ、
「逃げては駄目だ」と、この句に念押しされる。
胆力とか丹田とかいう言葉を思い出したり、
思わずこぶしを握り締め、体中にほとばしる
赤い血の、その血圧を上げて、
自らを孤軍奮闘、叱咤激励する。
渡り鳥が連隊ならば、
先頭は風の抵抗を一身に受け、
時折交代しながら、皆を守って大海原を超え、
大陸を行き来する姿に本能を信じる。
夫婦鳥ならば、その世界を思う。
一羽のはぐれ鳥ならば、ただ祈る。
全部、鳥が自分になる。
こんな句を、我が身にしみ込ませた時に、
一挙にいろんな思い出がなだれ込んでくる。
そうやって誰もが暮らして来たんだと思うから。
壮大なアリアのような一句として、心に響く。
この5月に待望の句碑が、宮坂先生の故郷長野で建立され、
お披露目もすんだこと、ファン一年未満の私ですが、
国の片隅から、お祝い申し上げます。
その頃ちょうど私は、
「しょうもないこと言わずに、
男なんだから腹くくってやらないと!」
と、よそさまの旦那にキレるという失敗を犯し、
何か、援護射撃をいただいた気分になったのでした。
後悔と反省が少し薄れたこと、陰ながらお礼申し上げます。
先生のお祝いの席で友人が披露した、
彼女の祖父への、宮坂先生の一句。
【 木曽谷の花をひきいて みまかりし 】
そこに、どんな尊敬や惜別の思いと、
家族への慰めが詰められているのかを思うと、
ただただ、惹きつけられる素晴らしい才能としか。。。
言葉がこの俳人、宮坂静生の、熱情の噴水のようだ。
あ~だらだらとして、千文字ちょっとが
守れなかった。。。
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