I think I did pretty well
日本語以外にすると、なんだか意味の重さが飛んで行って気楽になる。
これはどういうことだろうか。
スキしてくれた方の記事を読んでいて、面白い動画につい引き込まれたり、
お薦めの音楽を流しながら、あれこれ読んでいると考えることがある。
魂があって心があるとしたら、
私のイメージの魂は、赤い丹の小さな固まりだ。
心は身体の外にあって、そのスペースは、もしかしたら人によっては、
宇宙のように訳の分からない広がりがあって、
真ん中の芯が空洞になっていて、埋めたくて埋めたくているんだと思う。
だけども少し埋めていくと、
心はさらにスペースを広げるので、絶対埋まることがない感じ。
なので、どんどん心を何かで埋めていく。
埋めていくと、その作業が辛くなったり、埋めたそのものに影響を受けて、
思考が四方八方に散らかり続けるので嫌になってしまう。
そういう時に、人はなにかに破綻の道を見つけるのかも知れない。
楽になるために。
回りを寄せ付けなくなるとか、自分の殻に閉じこもるとか、
闘争する、ただやられる前に臨戦態勢に入るとか。
それを「考える」という自分との戦いになるのだけど、
誰もその戦いを見てる人も応援してる人もいなくて、
たったひとりの放置プレイなので、どう戦っていくのかは自由。
重さを嫌い、暗さも嫌う。
暗いのは重いし、意味を持たせることは独り歩きする危険もある。
なぜ危険かというと、その意味に支配されてしまうから。
支配されるのは、たぶんだけど、自分が自分とちがう自分になるので、
からっぽな芯の、そのスペースを上手く埋めていけなくなるんだと思う。
「思う」という言葉は便利だ。
断定してなくて、責任から逃れられるし、
押しつけもしてませんよという意思表示。
重く考えて軽く吐き出す普通の人々に混じって、
その空白のスペースを埋めようとしても埋まらない。
毎日そういう遊びで生きてるので、みな見ないふりして気楽に暮らす。
自分の芯のところの空白の広がるスペースに気づいたら、
どんどんどんどん埋めていかなければの気持ちになったり、
そんなことには気づかないふりして我が身だけを嘆いてみたり、
芯のところの空白のスペースが広がるたびに、
倍の速度でスペースを縮めて行こうとする人もいる。
それはもっと危険だよ。
空白のスペースは、大きく深呼吸できる位を確保しておかなければ。
上手く生きてる人は、時々スペースに埋まったものを
シャボン玉を割るみたいにパシャッて弾かせて、
溜まりこんだものを捨ててしまって、
また初めから新しい空白のスペースを埋めていくのだと思う。
古いものは空気みたいになって、そのスペースに残っているから大丈夫。
心のスペースがガチガチに固まらないように、
どんな小さなことでも「大丈夫、私上手く出来た」って、
いつも自分を応援することが肝心だと思うんだよ。
和田さん、こんな一筆書きの文章で「命令」をしてみました♡
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