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【お題】勉強*10代が生きる刹那を思う


東京都知事選挙が終わった。

選挙後に噴出するあれこれの話題でも、
「選挙前にやるべきだったのでは」とか、
「討論会がなされるべきである」とか、
お祭り騒ぎの後は、さまざまな反省や意見も出てくるのは興味深いが、
選挙のあり方について、いよいよ考えるべき時が来たと思った。

投票率が低いのと、期日前投票は狙われるとか、
ムサシがどうだという問題はさておいて、
一番目を見張ったのは、大健闘と言われる石丸候補が、
若年層からの圧倒的な支持を得たことだ。

これは、私がすでに若年層から遠く離れたことによる興味だ。

一方、高齢者層にはまったく問題にされてないように見える。

政治や選挙に対する考え方が違う、という点がまず表面化する。

若い世代は「本人」を評価しようとする。

年齢が上がるにつれて、
「本人以外」の背景に潜んでいる団体を評価しようとする。

例えば、文化祭のクラスでの出し物を想像してみるといい。

自分がやりたいことがあっても、
決して、自分だけの、たったひとりの力では無理だ。

選挙活動自体も、それと一緒だ。

もちろん単なる売名行為、その他もろもろには当てはまらない場合もある。

人を動かすことができて「押し上げられた人」か、
人に動かされて「頭に置かれた人か」の見極めも、
評価や、一票の選択の理由になるのだと思う。

どんな政治家も「鶏頭となるも牛後となるなかれ」であるべきで、
「長いものには巻かれろ」と一般に思う高齢者に対して、
微妙に意味の違う「よらば大樹の影」の「大樹」を、
若者は、石丸候補に当てはめたのではないだろうか。

東京都の側面、地方出身者の寄せ集めの都市という点は特異だ。

父親は中卒、母親は農家出身、本人は有名国立大学卒業で、
大手企業の職をなげうって、市政へ、
そして日本を変えるための一歩として都政へというコースは、
夢や憧れや尊敬を集めたことと思う。

田舎では珍しくもない三人兄弟の真ん中で、
その生まれた位置の宿命ではあるが、
大抵は、愛されるためのアピール行動に長けているので、
兄弟の数の減った、都市部に暮らしを構えた方には、
新鮮なキャラだとも思う。

概して、その外見においても印象の良しあしが変わる。

勝手に人相見をさせてもらうと(随分タフな方のようだ)とは思うが、
ヘアスタイルも体形もスッキリな上、シュッとした顔、汚れのない肌、
小さくも大きくもない目、それなりに整った好印象だ。

選挙ポスターも、このスッキリ感が続く。

公約といえば、どこにも具体性がないが、
具体性がないだけに、読んだものの希望的観測が広がりやすい。

ひとことでいうと、石丸氏はただ、綺麗なのだ。

現Xの、ツイッターが始まってから、
若者は短文しか読めなくなったと言われるし、
切り抜きやダイジェストが好まれるように、
世の中の情報量が多くなったために、
効率の良さを計ることが生活の中の必然になってくる。

その昔の元総理のセリフ、「感動した!」というような短文が、
コミュニケーションの極意だと好意的に捉えられる始末だ。

石丸氏の話す言葉の、一文一文は的を得ていて正論だ。

投票後の「都民の総意が可視化された結果」という一言も、
それ以下でもそれ以上でもなく、相対する言葉が浮かばないほどの事実だ。

TPOの無視と言う問題はあるけれど。

若年世代は、その刹那に発せられる分かりやすい一言一言に、
共感と言う土台から、心奪われるのではないだろうか。

一方、高齢になればなるほど、
石丸氏の言葉には「自分しかいない」ことに、不安を覚えるはずだ。

みな生きてきた若さを見ながらも、
「人心掌握すべき生業」に適正かどうか判断に悩む。

仕事が進まないのではなかろうか、と、
自らの生きてきた経験と照らし合わせる。

人とのコミュニケーション能力に欠けるという、
致命的な欠陥を見てしまうのだ。

若年世代は、「経験」という言葉が出てきてしまえば、
議論を戦わせる武器が少なくなる。

ゲーム感覚の強さ位しか振り上げられないからだ。

それは彼らの責任ではなく、大人が作って来た虚構の現実のせいだ。

政治と生活は直結してるとは知りながら、
投げやりに向き合って生きてきた時代感覚の共有のせいだ。

選挙の話題や公約の是非の議論などする家庭は少ないと思う。

学校で投票のやり方を教わるしか、選挙を学ぶ場がないのだ。

いつの時代も若者は刹那に生きるし、
歳を取れば取るほど、子の時代、孫の時代の先まで見ようとする。

これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、
ただ「そうなのだ」という事実。

それらを考えると教育のあり方を考えて、
安易に大学を増やすより、目的を持った高等専門学校、
「政治家を育てる専門の公的教育機関」も作るべきだと思う。

日本の歴史を学ぶ。

地政学を学ぶ。

あらゆる仕組みを学ぶ。

過去の政治の総括を学ぶ。

そうでなければ、芸能人がその知名度で議員になり、
「これから勉強します」と恥ずかしげもなく発言し、
その勉強のために、たくさんの税金が使われていく。

政治家としての教養を持った人が、最低限の資質者となりうるべき。

そうであれば二世であろうが、三世であろうが構わないのだ。

インタビューの中での石丸氏は、感情があらわで、
忖度なく、素直に育った方だと思えた。

正論を信じる発言。

意見を押し通そうとする拘り。

無理に作る笑顔。

余裕のない表情。

どこにでもいる、頑固だが、生活常識のあるインテリ男性だ。

政治への適性があっても、そのノウハウには欠けると思われる。

どんな職業も、相対する方に気づかれぬ姑息な手段や、
コミュニケーションが存在する。

投票前は部分的な「切り取り」で過大評価され、
投票後も部分的な「切り取り」で貶められている。

私の政治家の視点というもののイメージは、
土門拳氏の写真のようなものだと思っている。

泥臭さに向き合う真実への執念。

今回の都知事選のイメージは、
篠山紀信氏の写真のように思った。

知性的で美しさに魅かれるポートレイト。

ポートレイトを作り上げ続けたことで、
若年世代の心を掴んだのだと思う。

全体の戦略を本人が納得しているか、どうかは分からなくとも、
きっと「騙される方が悪いのだ」という正論が聞こえてきそうだ。

正論は部分的に役には立つことがあるが、
全体においてはトラブルの火種になることも多い。

世の中に事実というものはあっても、
何が「間違いなく正しいことなのか」を判断できる人間などいないだ。

一方、裕福なご家庭で育って、いまだ事業仕分けの
「二番じゃダメなんですか?」の一言がついて回る蓮舫氏はご苦労された。

メディアの執念深さは、自らの都合の悪いことにも発揮して欲しいものだ。

真偽はどうなのか分からないが、
蓮舫氏に関しては、下記のトピックが一番心に残った。

東国原英夫氏が「友人だからあえて厳しいことを言う」と、
ご立派な前振りに、どんな話かと思ったら、
「あなたを生理的に嫌いな人が多い」という単なる悪口だった。

蓮舫氏が言う「友人でもない人」にそんなことを言われたのだとしたら、
どのような人でも憤慨すると思うが、メディアの論調は、
東国原氏の発言を正とするために、キレやすいオンナと色づけている。

単純に、このトピックを若年世代が読んだら、
「人を判断するのは難しい」と反省するのかも知れない。

しかし、あんなハゲで不細工な、
脂ぎった男に嘘八百言われるのは、気持ち悪さしか感じない。

いくら頭が切れている方でも、あの長すぎる顎は精力絶倫風だし、
離れすぎた下がり眉と広すぎる額は、間抜けそのものの顔ではないのか。

身体的特徴を始めとした、自分では変えようもないことで、
誰かを攻撃してはいけないと、学校や家庭でも躾をされなかったのか。

それは相手に対する尊敬そのものを持ちえない、上手い攻撃ではないか。

言うにことかいて「生理的に嫌われてる」に、唖然とした。

確かにハゲだの不細工だのわざとストレートに書き込んでみたが、
ストレートであれば、書き込んだ自分の方がさらにバカに思えてしまう。

政治の世界では、バカに見えないように、
自分に火の粉が降りかからないように上手に立ち回れる狡猾さも必要だ。

しかし、こんな方々が、国を粗末にしているのではないだろうか。

残念ながら東国原氏の方が、メディアの立ち位置や、
人の心の動かし方を知っているのもまた事実だ。

こういったことを見て学んで、
あえてスルー出来る冷静さを持った人物か、
倍返しできる、人間力に長けた人物を国民が育てる必要がある。

若年世代は、「変わらないことの安心」ではなく、
「変わることの新しさ」を選んだことだけは大いに評価すべきだ。

それが、この先を見せてくれた希望とも言える。

#万華鏡

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