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飲んだ日日記 20240223

 昨日は休みを取ってマチネで観劇をして、でも3時間以上ある舞台だったので、まっすぐ帰ってきたらもう夕飯の時間で、キムチ鍋を作って食べて酒を飲んだ。そうなると寝てしまう。そうなると今度は眠れなくなって、4時ころに寝た。そうなると、起きるのは昼になる。
 ものすごく寒い日になって雪さえ降るかもという予報だったので、一昨日あたりにいちど友だちを「テルマ&ルイーズ」のリマスターを観に行こうと誘った数十分後にやっぱ辞めようと撤回するくらい今日を警戒していた。それくらい寒いのが苦手、というか嫌い。寒いという事象が許せない。陰気になる。

 辛ラーメンってやっぱ袋麵の中では結構うまくない方に入るのかも。昨日のキムチ鍋の残りを入れて味の補強を図ったがあまり効果を得られず。
 あと少しで読み終わるところだった勅使河原真衣『能力の生きづらさをほぐす』を読み終えた。主観と客観のバランスって人生における最大の難問だ。

 最近また、私は私がいやな思いをするような環境にかなりずるずると身を置き続ける悪癖があるということに悩んでいた。(人生でn回目の思い出し悩み)
 差別発言を繰り返す(多くの場合そうであるように、差別発言を繰り返す点以外は素敵な人だった)人と別れるまで4年かかった。お前死ねとか言ってくる上司の下では5年働いてやっと転職した。人に話すと驚かれるような、私が決定的に傷つくようなことを言ってきた人と、全然友達付き合いを続けている。複数回それをされたことがある人でも全然いける。さすがに限界だと思った人と縁を切ったことがあるが、それはこれまでで一度だけだ。(いうまでもないことだが、もちろん、一度も私を傷つけたことのない友達も何人もいる。)
 そもそも、私は他人に対してかなり狭量である。決定的まで行かなくても、他人といるとかなりしょっちゅう(ん?)とか(あっ)とか思っている。神経質だと思う。
 一方、こうやってネチネチしたことだけ書いてるこのブログからは伝わらないだろうが、私という人間の実像はアッパーな印象だ。よく通る声でよく喋るからである。他人の気持ちが全然分からないことに対して一定の方向に開き直った結果、初対面や目上の人にも特にご機嫌うかがい的なムーブをしないので、さぞかし度胸のある人間に見えているだろう。自己肯定感も自尊心も高いとよく言われる。まあそういう風に見えるならもう、そうなんだろうが。
 この年齢(今年で30)にしては多くの人と休みのたびに会って飯を食ったり酒を飲んだりしている方だと思うが、内訳はそんな調子で、人と会ってはしばしば(ん?)とか(あっ)がこびりついた身体で帰宅してぐったりとし、数日間引きずる。別の友達に相談する。そう思うなら離れればよいのではないかと言われる。正論である。でもそんなことをしていたら友達いなくなるだろ。いや、いなくはならないけど、減るだろ。べつに減ればいいのではないか。正論である。
 (ん?)とか(あっ)とか思うことの裏には、常に(今、自分も相手から同じように思われているはずだ)という自己否定がある。私はこの自己否定から逃れるために、(ん?)とか(あっ)に目をつぶろうとしているんだと思う。要は聖書の教えだ。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32、新共同訳)。というか、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7、新共同訳)の方が近い。自分の(ん?)や(あっ)が相手に看過されている(はずである)のに、どうして自分だけが(ん?)や(あっ)を1回でも踏まれたら即終了のドボン制で人間関係を終わらせられるというのか。
 いや、別に縁を切るまでしなくても、す~っと疎遠になればいいのでは? いつかまたす~っと近づく日もあるかもしれないし。人生でどういう人間関係を営むかなんて、主観100%で決めるべきだ。第三者が審判をしていて、お互いの(ん?)とか(あっ)の数を記録して得点表に記録しているわけじゃない。偉そうに聖書を引用したが、べつに神(キリスト教の)を信じているわけでもない。
 どんなに(ん?)とか(あっ)がうずたかく積まれている相手でも、自分にとって、メリットがあると思うなら、もしくはなんとなく、どうしようもなく心惹かれるニュアンスを感じるのなら、付き合い続ける選択をしてよい。それだけのことだ。それだけのことなのにいつもうだうだと悩んで、(ん?)とか(あっ)をうまく身体から排泄できず、そのまま清らかならざる心で人と付き合い、しまいにはこうして書いている。不健康・不誠実。

 もともとお笑いはうっすら好きだたのだが、いわゆる芸人ラジオ界隈にはなじみがなく、しかし去年紅しょうがのPodcast番組にハマり、最近ついには紅しょうがと仲の良いMユリカの番組を聞き始め、さすがに人気番組とだけあって本当に面白く、よく見ると阪本さんが好みの顔立ちで、もういよいよ好きになってきた。今からY本のタレントにはまるのは完全に愚かと言えよう。全員が犯罪者だと思っているわけではないし、おもしろい、好きだと感じる自分の気持ちや各タレントじたいを否定したくはないが。なんか、さすがJのタレントが好きだった自分……というため息が出る。犯罪の温床の臭いに惹かれてるんでしょうか? でもこんなことを言って何の意味があるんだ。
 ハリウッド界隈にはあまり詳しくないながら、アベンジャーズシリーズを観て以来マークラファロが好きだ。そうしたら先日何かの授賞式?でパレスチナ問題に関し停戦を呼び掛けていた。正しい。マークラファロだけ好きでいたい。推し(岡田くん)は朝マックのCMに出ている。もう好きじゃない、と言えるのが理想的だ。担降りだけに客観的正義がある。
 ああ、主観と客観のバランスが取れない。犯罪に加担したいわけではない。暴力への怒りもある。募金もした。でもそれらが嘘ではないことを証明するためには、私はY本とかJのタレントを好きになってはいけない。嘘つきでなくなるためにはもうひとつ逆の方法があって、社会の犯罪や暴力に対して何も知らない・感じていないスタンスを取った上でのびのびと推し活をするというものだが……

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