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主体性の話

あえて主体性を誇示しないーそれはまさしく、
瑞穂の国ジパング古来の農民の哲学というべきものです。
そして、存外、これこそが自己保全の最良の方法、
生活の知恵なのかもしれません。

内田康夫さんの著作は、紀行エッセイなどはちょっと怪しいですが、ほぼ読んでいると思います。
内田さんが亡くなられたのは2018年なので、もう5年以上が過ぎたのですね。
上の引用ですが、内田さんの著作「軽井沢殺人事件」の角川文庫版の最後、著者ご自身による解説にある文章です。
活動的になりすぎずに、農耕民族らしく、四季のうつろいや1日の流れに合わせて受動的に行動しよう、と説いているように感じます。
これは1990年に書かれた解説です。
当時はバブル景気の終焉が近づく頃、バブル景気のピークに近いご時世だと思われます。
主体性を誇示しすぎる風潮、もしかすると自分の持っているパフォーマンス以上のPRをする風潮があり、それが内田さんの目にはケバケバしく、うるさく見えたのかもしれません。
主体性を出しすぎず、奥ゆかしさや、古風であることが、本来の日本人の持つ気質であって、だからこそ日本という国が独自性を保ち、歴史を積み重ねてこれたのでは、と訴えられているようです。
この解説が書かれた後、1990年代にバブル景気は弾け、日本は「失われた30年」なる時代を過ごすわけです。
バブル崩壊という強烈な「失敗体験」を経て、日本人は自然と主体性を失ったのかもしれません。
それから30余年を経て、「もっと主体性を持つべし」という考えが叫ばれるようになっている最近の気がします。
これまでの過去と比べ、多様性やマイノリティが圧倒的に尊重される時代になっている現代。
仮に一般的ではない思考を持っていたとしても、それを発信できる主体性が認められているのが現代です。
世界の中での日本という国の力が低下しているため、エキセントリックな思考であってもそれを求める世情もあるのかもしれません。
人々の主体性が高まれば謙虚さや奥ゆかしさや従順であることが待望され、逆に受け身や保守的になると積極性が叫ばれる、
時代とはそういうものなのかもしれません。
先日、「主体性」と「自主性」についての話を聴きました。
「主体性」と「自主性」は似た感じですが、次のように異なるものだそうです。

主体性・・・自分の頭で考えて判断して行動すること
      誰かに言われたことを「やらない」という判断と行動もある
自主性・・・誰かに言われたことを自らすすんでやることができること
      忖度も含む

今、求められているのは「主体性」だそうです。
この先の未来、どんなキャラクターや気質が人に求められる時代がやってくるのでしょうね。

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