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匿名性ある報告


詩は、

・生の表裏に言葉を発見する試み、であり、一方でまたは、
・動態を静態に落とし込む曲芸であり、よって、
・それを飲み下した者の何かを内側から変えてしまうものであり、
・文章の究極的な目的であるそれを究極に煮詰めたものである

と思っています。

私は、自分の詩が選ばれる場を探そうと思い始めました。

ーー

意識的には二年ほど前から、詩や寓話といった形式で文章を吐き出してきた。この活動は私に新しい均衡や平衡、調和といったものを随時にそれなりにもたらしてくれた。それだけの緊張や分裂、混乱を抱えていたのだと思う。し、そのような状態とそのような営みはまだ充分に続いていくことのように感じている。し、この営みは一方で新たに強力な緊張や分裂、混乱を私に授けることになるのだとも思う。

さて、何にいつとは言わないがそんな営みの副産物であるところの作品を、一つの界隈の一つの評価機会に晒してみた。つまり賞に出した。そして結果は敗退だ。そして当たり前のように学習した。私なりに言うのであれば、「詩作含む作話という営み」そのものとは別にある寓話的な状況に対して視野が開け、そんな寓話的な状況に対して私は何をどうしてどうありたいのかがクリアになった。

まず持ってその寓話的状況とは、「幾つかの局所限定的な感性が、惰性や慣性と慣習をも伴いながら、他の幾つもの局所限定的な感性から一つを選び取る」と言うものになる。ちなみにそれに対して私は全体完全な感性だとか言うのでは全くない。私も私として恐ろしく局所限定的であり、動態そのものを捉えきれない静態まがいであり、武器や守護として持つはそのことに対する揺らぎや意識くらいでしかない。(でもたまにそこを出ている記憶がある。)

自戒はさておき、選ばれなかったという素朴端的な事実から遡り、では、誰が誰をどのように選び選んできたのかという文脈つまり寓話の主旋律を明らかにしたいと思い、そのようなことをし始めた。し始めたと言うのは、本来は「ここ十年くらいの受賞作品と審査員の主作品を読み込み通して、そこで求められている感性のタイプに当たりをつける」くらいのことが必要になる手前、私が既にしたことと言えば「今年の受賞者の作品を幾つか読み、今年の審査員の幾人かの幾つかの作品を目に入れた」くらいだからだ。なので本当を言うとこの記事を書く段階ではないような気もするが、本当を言うと現段階で書いてしまっていいように思っている。なので傲慢でなく懺悔として書こうと思う。

端的には求められているものではなかった、選ばれている潮流に乗っているような作風ではなかった、ということがすぐに明らかになりました。「最近の現代詩は長いものが主流」と言うコメントを聞いたこともありましたが、確かに長いように感じました。更に言うのであれば私という感性にとっては冗長であるように、絶対に必要があってそこに配置された言葉の絶対的配置、絶対であるからこそより高次な相対を意識させるような緊張と揺らぎ、であるようには感じられませんでした。そして一方で「意識の流れ」そのものというよりは「意識の流れを意識的に定点観測したもの(を継ぎ足したもの)」であるように感じましたし、その営みの背後からは微かな不安を感じました。長いにしても意識的に潮流に合わせているゆえの長さであり、終わりには「これくらいでいいか」というような意識的な判断の痕跡が感じられ、何より何より長いにしても、だくだくと湧いてくるものを自分で飲み干し続けてむせ返っているような切迫感ある風景は浮かばず、目的地のない垂れ流しのように思えました。イメージとしては(極地から削り出された太古からの氷塊、からは遠く)南国から届いた未発酵かつ添加物のある淡いビールのような感覚がしました。勿論、一つの作品集にどちらもがあっていいと思います。が、ある作品集の中でそれが主調となることも、作話に関する界隈でそれが潮流となることも、なんと言うか終わりがないような気がしました。一方で勿論、始まりもないような気がし、そこに自己目的的に徒然としている冗長さを感じました。多分私は chill みたいなものよりも絶対零度を求めてしまうパーソナリティなのかもしれません。でも残る・遺るってどういうことなんでしょうか。

今現在の私としては、こんな私の印象は極端に過ぎないのかどうか、もう少しまたはもっと調査の歩みを進めて判断しないといけません。なので、今までやらなかったことをちゃんとやってみようと思います。普通はやるであろう当たり前のこと、現在を共に生きている他の表現者の作品を、衒いなく眺めてみること、読み込んでみること。その道中や終点で無理に最初の印象や結論を変えようとはせず。

さて、この記事の主旋律に立ち帰り、近い将来より明らかになる「現代詩にまつわる寓話的状況」に対して私がどうしてどうなりたいかに論を進めたいと思います。まずは私のような作風が潮流になりやすい他の界隈があるのかは探してみてもいいと思います。ここで界隈とは雑誌という場や賞という機会を起点としているでしょうから、そのような認識のもとで探索を進めようと思います。でも一方で、多分より大事なこととして、今まで通りまたは今まで以上に強く強かに、私という作風いやテキストを練り上げていくこと、その過程としてここやそこらで耳目に晒し続けること、そのために作話という営為に捉われずに生活と生命の全体から自分の感性を賦活・開発していくこと、そしてその感性を自分や他者の人生に随時に還元して勿論のこと反応を観ること、をここで新たにあなたに約束します。

それではご機嫌よう。いつかどこかで会いましょう。

で、終わるのも詰まらないので論をはみ出し一つのことについて語りたいと思います。これ以後の自分の生活実践に関することとなります。それは、ホルモンバランスではなくホルモンバランシングに熟知しましょうということです。結果的には炎症として現れるようなホルモンバランスからの逸脱、も視野に入れた上で質や強度の高い活動を継続、するためにやはり逸脱に対しては補償するような仕組みを生活としましょう、ということでしょうか。

四半世紀と少しの人生で学んだことの一つですが、あらゆる行動や活動は生理学的な次元でホルモンの放出や分布として捉えられ、そして何より重要なこととして、ホルモンは出した分だけ暫くは出なくなり、一方でそれと拮抗関係のある別のホルモンがその分だけ出続ける、ということです。拮抗関係というよりただ関係と、より広く言っておいた方がいいかもしれません。このような動的な関係として有名なのはドーパミンとセロトニン、そのように認知されてはいないが私にとって重要であるのはノルアドレナリン/コルチゾールとヒスタミンでしょう。ちなみにここでホルモンとは「ある器官で生成され、その器官や他の器官に対して送られ、よってその器官が特定の働きをする起動因子となる化学物質」を意味しています。メタ過ぎて情報量がゼロに近くなる典型的な存在のようにも思います。

ここで明らかにしておくと私はこれらの「ホルモンの関係の動態」において、「ドーパミンを出し過ぎてドーパミンが出ないままにセロトニンに食い破られる」ような事態に陥ることが多々あり、また、「(ドーパミンと機を一にして)ノルアドレナリン/コルチゾールを出し続け過ぎてそれら(特に後者)が上手く出なくなりつつヒスタミンに燃える」ような事態に陥っているように思います。

とか、生理であっても個人的な事柄に立ち返るのもやっぱり詰まらないので辞めにして、それらのことは意識の片隅で無意識に学習するに任せ、ここから今日の意識的な時間はリサーチに費やしてみようと思います。主題は繰り返し「誰がどこでどのような感性を選び選んでいるのか」と、「私という一感性が選ばれやすい界隈はどれか」となります。

あと唐突な末筆ですが目的回避的でなく純粋に目的志向的な人間をやろうと思います。何より私は詩は、

・生の表裏に言葉を発見する試み、であり、一方でまたは、
・動態を静態に落とし込む曲芸であり、よって、
・それを読んだ者の何かを動かしてしまうものであり、
・文章の究極的な目的であるそれを究極に煮詰めたものである

と思っているから、私は、自分の詩が選ばれる場を探そうと思い始めました。

目的志向的となった私はこの最後の箇所を冒頭に掲げ直して今日を終わりに向かわせます。



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