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社会2分世界



未来の対話 dialogue を今 ・ 独白 monologue として描いておく

ある種の人は時たまにいますね。閉じているか・開いているか、なんていう表現を使わせていただくならば、閉じている人が、私の開きに吸い寄せられてくるというか、その人自体はそんな全体観を意識することなく近寄ってくることはあります。

夏の虫が光に引き寄せられても、何もしないじゃないですか。そこでたむろするというか何もせず、無意識の本能、盲目によってそこにいて、本当に目を焼かれるか干からびるかするまで、羽音を撒き散らしながら直視もできずに、やっぱりそこにいるじゃないですか。そういうことはありますね。

どうしてなんでその人は盲目なのかって、それは瞼でしょう。まあ実を言うと、瞼の裏にも中にも沢山の情景が散らばっているのですが、その人にとって瞼は一面一色でしかないつまり何物でもありませんので、目を閉じている時その人は何物を見ていない盲目の亡者なのです。つまり言語ですね。言語によってその人は窒息死していて、もうその人は言語に食われた、言語の最終生成物 linguistic endproduct なのです。(窒息は楽しいファクターですけど窒息死は全くダメです。)

ちなみにそういう人は光より先に鏡を見るべきだと思います。そしたら何に取り囲まれているのか、何を溜め込んでいるのか、穏当に直視できるはずですから。もちろんそのためにもまずは細々と、瞼を開かなくてはなりませんがね。少しずつ慣らしていけばよいと思います。観ることさえできればあとは易しいですから。

はあ、そう私ここ十数年、言語の以前と以後を考えます。もちろんそんな時にはたまにビクンと言語以中になったりもするのですが、それは物心ついて早くからそうで、チックなんて呼ばれて矯正に晒されておりましたから、何となく対処もできてはいるように思います。いえ言語以中は多分、言語ではありません。なんて言うんでしょうかね。ビクンのその先の囁きってのは。ちなみに前後も中も言語ですけど。

はいそう、言語の以前と以後でしたっけ。いやねえ思うんですけれど、「言語や意識が発生したのは今のところ、私たちの進化の系譜の最後の最後です」って、言語でそのまま生物学の教科書に書いておけば、まあいいのにってまあ、本当に思うんですよ。そこで気が付く人は気が付くと思うんですよね。「確かに!それであれこの「確かに」って何?って何?って・・・」って・・・まあ何かにどうかして。私達の神経系と言おうが筋骨格系と言おうが一つの代謝生理ネゲントロピーと言おうが、何と言おうがやはり構いませんが、私達の殆どは言語発生以前に組み上げられてきたのですから。なのでまあ、最低限の言い方をすると、言語だらけのこの世界では特に、少なくとも言語以後の感覚つまり言語と、言語以前の感覚との関係を念頭に入れましょうね、気をつけましょうね、なんてことになりましょうか。(以中に関しては感覚というか出来事ですね。機能でも記憶でもないです。)

じゃないと言語で遊ぶ、言語によってそれ以前を賦活デザインして新しいトータルになる、のではなく、言語に遊ばれる、言語によってそれとして不活性家畜化される、ような事態になりかねませんから、本当に気をつけて気をつけて、「言語や意識が発生したのは今のところ、私たちの進化の系譜の最後の最後です」と生物学の教科書に明記するべきだと思うのです。すると腑に落ちて楽になる人もいましょうから。というかそれを人と呼びましょうか。

以前以後ときて以中とか言いました時に、そんな言い方ないよ分からないよって思われたのなら、遊びが足りなくて危ないですよ。肩、凝ってませんか。腰、痛くないですか。肩甲骨、ずるずると動きますか。大腰筋から使えてますか。股関節の動きからリンパ系を賦活できますか。そう言う意識を持って体を使ってますか、遊んでますか。最近運動不足、である以上に、「最近運動不足で」とか言っちゃってませんか。多分、言語で遊ぶ以上に言語に遊ばれている人は、最後以外は all no ですよ。(あれ、どっちでもいいや。)まあ yes no とかってそもそも言語の極みですけれど。all no とか all yes なんて特に。yes と no をぶっ壊すためにそう絶叫しているのなら別ですけどね。そんな叫びは横隔膜からです。または骨盤の底と仙骨。そこまで行けます遡れます。それには走った方がいいですよ。声帯に横隔膜、腸の全体を揺らしながら、多くの基本動作を脊椎運動として再獲得するとよいかと思います。もっと言えば泳げれば、海の全部を游げればいいと思います。元は魚ですから。

あとあれ戻りますけど、なんか思うんですよね。あるじゃないですか。半分こしていくやつ。あれへのスタイルって結構あると思うんですよ。これです。

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そもそもこういう中途半端だったり、出来合い過ぎる人はいますよね。結構沢山。

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何ならそれこそこれくらい。

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やるならやっぱりやり切って欲しいんですけど、やり切ったらまあ、その端緒というか始めとか終わりに着目して欲しいですよね。そもそも実はそこから生まれたかもしれないわけだし。つまり最後のここ(右側の本当は境界線自体で塗りつぶされているとこ)とか、

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または最初のこことか。

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(一回りして帰ってくるのと最初から佇んでるのって、やっぱりちょっと違いますよね。でもどうでしょう。同じところもありましょうか。)

それでもちろん次のような違いも生まれてくると思うんですよ。例えば、

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ここまで行って次の最後(境界線自体で塗りつぶされてたとこ)に直面して、

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「全ては黒だ」とか言う人もいるけど、でもこの人って、このように始めて、

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こうなって

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このように終わっていた場合、(白い四角があります↓)

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(白い四角があります↑)何て言うんでしょうか。「全ては白だ」でしょうか「全ては白か黒だ」でしょうか全ては白黒でしょうか。なんて言うかフェアじゃないっていうか、もしくはフェアすぎて何も捌けても裁けてもいないよう気がします。少なくとも滑稽ですよね。「色には明るい色と暗い色がある」というような言明はもう軍隊の教本の中だけにして欲しいです。

それでまだありますよね。ちらっとさっき触れましたが、一回りしてかどうかはさておき、ここに着目する人はいると思います。こういうことを皆んなでいつからかやり始めたら、こういう個体は出て来ると思います。ここです。

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もしくはそうここ。

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それまでの履歴、記憶や来歴はさておき、最初からか最後にはここに行きついて、阿呆や天才と呼ばれながら、間や狭間をすり抜け行き来し、白でも黒でもどちらでもまたは何でも、身に浴びることができるというか、そういうことをしてしまう人、そういう感覚世界を生きてしまう個体があります。言語で言えばね。彼らは道化、トリックスターとかって言うんでしょうか。または必要ならば生贄に成りましょうか。そういう体験はもう言語を乗り越えているというか、言語以前に回帰していると思います。言語を通じて、言語以中をすり抜けてね。いますよそういう種族ってそこらへんに。すっごくセックスしたいです。揺れ動きながら残さないといけません。

もうこれは回り回らずとも 愛 I や 哀 i 慈しみでしょう。




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