議論 ⇄ と 懐柔 ・←



ブートキャンプにいた時に、「喋ると動くはトレードオフだな」と思うに至り、そして「喋るのは自分の代わりに人を動かすためだな」と思い始め、次には「喋りで動かすにも色々な方法があるねえ」と思うこの頃というかそんなことは物心ついた時から想っていたが、今ここで遂に満を辞し(笑)、喋ることで自分の代わりに人を動かすことについて覚書を認めておきたい。したためておきたい。

ちなみにここで喋るとは語るとか、そういった、単純に言語を伝達するとか言葉を見せるといったような事態には還元しきれない要素を持つ行為・現象を表している。傍メタ論だが、コミュニケーションという業の深い広汎な事態において、私たちが実際に何を授受しているのか、このことへの理解は常にオープンかつ可塑的にしておきたい。例えば、テレパシーという事態には否定も肯定もし切らないようにしたい。( 記事の射程から外れるが、「私たちはコミュニケーションする」は正しくない。「コミュニケーションが私たち」くらいが穏当だ。その有り様(≒見た目)は幾らでもあるだろう。 )

まずイントロとして急に、幾つかのパーソナリティを素描したい。もちろん議論とか懐柔とかっていう観点から切り分けて統合したようなパーソンを描くことになる。殆ど全ての事柄にもっともらしい関係性を持たせてこの記事に含ませることもできるが、あまりにも冗長な記述は避けたいのでこの一文も削除する。


. 懐柔し過ぎた反動で振り子のように、議論しかできなくなった人

物心ついた時から知性が開いている子、前頭前野の活性度合いが早くから外れ値的な個体がいる。往々にしてこういう個体は幼稚園くらいの早期から離人感を呈し始め、その様相は保母さん等の他者からしても分かり、彼ら彼女らの記憶にも何となく(の心配とともに)残っている。

これらの個体、彼らは情動的に自己保存する以上以前に理知的に浮動不定の状態にあり、なので端的には上手く自己保存が図れないし、それ以上に若干の楽しみもあり、他者の立場や視点(以下視点)に自らを据え置いてずらし続け、あらゆる他者を想像して弄るような愉しみを嗜んだりする。もちろんこの時には、自己保存の主体かつ対象となる自己の手触りを醸成する以前から自己滅却の終点となる自己への感覚を養うことの罠やある種の不毛を感知してはいない。この償いは後の段階で果たされることになる、または果たされずに霧散して終わる。

さて、このような個体は往々にして他者の情動(自己保存を目的とした快不快、その表現としての感情、その発露としての行動、の全てとか複合)への理解や感知の解像度が異常に高く、よってここで懐柔と呼んでいる行為に秀でていたりする。つまり、他者の情動に介入することで、自分が望ましいと思っている動きや蠢きを目の前(場)に実現することに長けている。もちろん但しこれは、その場にその個体は含まれていないという自己疎外の営みでもある。言い換えれば彼は、誰にも気づかれることのないバランサーであり、気づかれる時にはトリックスターというはぐれ者である。

さてその個体はそのような行いを営みとして繰り返し洗練させ、「社会的知性」と呼ばれるようなもの(実際は血抜きさえすれば知性それ自体)を強烈に開発していくことになる、というか人生がそうである。もちろんその社会にそいつはいない。つまり永遠の自己疎外が人生になり始めていたりする。でも何というか不快でも苦痛でも無いのだ。これには回りくどい快楽がある。

そんな回りくどい快楽で回転し続ける個体もいるが、往々にして彼らの多くはそうはならず、どこかの段階でこれまた回りくどい自己保存を図るようになる。最初に簡潔に一文で言えば、情動でまたは懐柔としてそのまま行えばよい自己保存を、理智というか議論というかのそんな立て付けで行い始める。本当に理知と議論によって(自己ならぬ)自己保存を営むのならいいのだが、実際は未分化未発達な(自分自身の)情動システムを補うように、理知が奇形となって終わらない議論を繰り返すような事態に陥っていたりする。自分という内外の別が無かったり希薄であるのに「外側から」「言葉で」自分の輪郭に辿り着こうとする。何より面倒なのはそのことに言及することがそのスイッチを押してしまうことだったりする。

あれこんなことを書こうとは思っていなかった

話の背骨を折るようにして軌道修正したい

そのために簡潔な文体を採りたい

さて、まずもって「自分以外の人間を自分の代わりに動かす」時に、議論と呼ばれる方法と懐柔と呼ばれる方法がある。この方法の別は深刻で、多分、使用適用する人間の脳みそのどこが活性化しているかさえ変わってくるのだと思う。いやそれは当たり前だ。

議論とは極端には、「⇄」によって暗喩したように、お互いまたはあらゆる立場を入れ換えたり、少なくとも各人がそれぞれをあらゆる視点に立たせた上で、私たちという全体をどうデザインするかを言葉によって組み立てる営みであると思う。なので自己保存本能、自己利益を生み図る固定的視点、というか視点の固定性は抑制または滅却されている。

一方で懐柔とは極端には、「・←」によって暗喩したように一方が一方の情動システムに完全アクセスしつつ様々な媒体(言葉・身振・声色・視線等)でイメージを流し込むことによって目的を達成すること、つまり対象となる個体の自己利益に自らの自己利益を混ぜ込むこと、または両者を混同させること、ないしその両者が相反するという思い込み(という相手の自己利益)を打ち壊すことであると思う。視点の固定不定について言えば、相手を固定に縛り付け、自分は不定に飛び回りながら舞い降りることになる。または自分の浮動ダンスに相手を引き摺り込むこともある。それを尋常でなくリラックスして行う。というか尋常でなくリラックスするとそういうモードにはなっている。

殆どのコミュニケーションは懐柔的議論(=議論)であり議論的懐柔(≒説得)であり、先に挙げた二つは極例であろうが、自分が何をどうしたいのかによってコミュニケーションそれ自体に介入しつつコミュニケーションすることは、必要な分化発達であるように思う。ちなみにどちらにせよ、主体として行うには自己保存本能を抑制する必要がある。したような感じでしていない擬似主体が混ざり込んでいる時に展開されるのが喜劇であり悲劇である。歴史は悲喜劇ではない。歴史なんて(それとしては)無いけど。




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