meditation ? / affirmation !




発想の流動性や言語感性の身体性、後者とはつまり、言語を契機としたイメージがどの程度、身体や行動または他者といった「「 他の代謝系 」の動作 」に影響を与えるのか、が、平均と呼ばれる基準より高いものであり、個体としては異質な水準にあるということを思いながら、その基準や水準という発想そのものが私という流動には耐えられず、胸を破りたくなるような破壊衝動が湧いてくるのを感じてきた。

そのために私は幾つかの呼び名で表される活動を自らに施してきた。最も興味深いことにそれらの活動は、行えば行うほどに「自ら」という発想(または発想や感想の母体)を融かしてしまうものであったのだが、現実として未だ私は個人の輪郭を失うことなく、私として実は強固に存在している。

さてそれらの活動とは端的には瞑想、催眠または気功、呼吸法、ヨガ、自重トレーニング、ボクシング、セックス、創作、読解、暗唱であり、例えば最後の暗唱であれば五十や百の集まりであれば流しで暗唱し切るような強度を、それぞれの活動に持たせてきた。市場で仕事として行うことで、他者を媒介に強度を獲得してきたものもあったし、今現在しているものもあるし、近い将来そうなるものもあるだろう。他者を媒介とする自由の場が今は市場なのだから。とかく最優先事項は継続とそれ以上に強度であり、量は質を代償するという仮定と、量は質を保証しないという仮定を競わせながら、段々に順々に、時間を掛けながら、掛ける時間を短くもしてきた。

( 催眠と気功(への私の関わり方)には補足をしておきたい。私は、これらを「集団の中で」「師匠的な個体に」「教えてもらった」ことはない。催眠とは言語を媒体とする気功であり、気功とは感覚優位の非言語催眠だとも言え、何にせよ、言語や感覚といった現象を意識的に取り扱うことで他者との間に達成される、コミュニケーションの一種または一段階でしかない。私としては、催眠や気功そのものは自己目的化された空虚な営みであるが、目的を他に持ち、それとしてでなく技術応用としてであれば、かなりの仕事をしてくれるように感じている。実際問題、(瞑想ヨガ暗唱等)他の活動で高めたり深めたりした生理状態を、どのように他者に伝達するかというと、どうしても催眠や気功と呼ばれる現象を経路とする他ない、と言わざる負えない。そして繰り返すが、こられは決して「集団の中で」「師匠的な個体に」「教わる」ものではない。催眠や気功といった、「目的のある対人(亜)瞑想」の本質は、ただ、

・inertia / あらゆるものに慣性は働いている
・pulling / 既にあるものしか引き出されない
・liminality / supra顕示でもsub暗示でも、認知されれば認識に影響する

上記の三つであり、ここに「・puressure / 上下左右(優劣同胞)の同調圧力は常にある」を加えるべきではない。何故なら実践上、pressure ばかりに頼り過ぎると、他の本質が疎外される、または、他の本質的な経路から状態を達成することが、できなくなっていくからだ。

( ちなみに瞑想の「本質」を表現するのであれば、「任意の変活性(が可能な生理状態への移行と維持)」くらいになるのだと思う。いわゆる止観や遮那とはそのヴァリエーションだと思う。ただ、言語表現すること自体に意味はない。 )

そうして、まだ四半世紀と少しの人生ではあるが、何となく私は、私というものへの操作感を掴みつつある。それを端的に表現すれば表題の通り、meditation と affirmation だろう。もはやそうとしか表現できないものをそう呼んでいるだけであり、こう呼ばれたものが即それであるということはない。なのでもしかすると、同じ音韻を持ちながら異質な事柄を唱える個体も多くあるかもしれない。その異質性が私と彼の異質性を写したものであれば構わないが、もしそうでなく、そんな質異は劣化や添加でしかないのであれば、私たちは彼を沈黙させた方がいい。

多分それほどに、meditation と affirmation とは、無垢なギリギリの事実や実践であり、誰もこれ以上触れてはならないようなものに感じている。その、名前以上の表現とは以下のようになる。

・無くす ( 外す )
・立てる、傾ける

まず一切を無くすか外す。そして任意を立て、好きに傾ける。状況や環境に対する一個体として出来ることの最低限であり、その段階での記述、把握、それ以上に実践だからこそ、これには意味がある。言い換えれば保存される。その価値、実態がある。

蛇足であるが「意味がある」とは「(自己)保存される」という事態を、「意味がない」とは「(自己)保存されない」という事態を指していると、気が付いているだろうか。「意味がない」という空虚や虚無そして希死とは、「これは(自己)保存されない」という気が付きや発想であり、それは流動を旨とする意識(特に、辺縁系に使役支配されていない状態の、前頭前野が優位な状態の意識的な意識)の常態感覚なのだ。私たちは意識的であれば意識的であるほど、何物も自己保存されないという気付きに気が付いてしまい、その圧倒的な空白(=アイダ)を前にして、「意味がある」または「自己保存される」そして「歴史はある・歴史になる」という子としての発想は母体にすぐさま解消される。意識は自己保存、本能に反抗、少なくとも拮抗する。

気が付けば気が付くほど意味が無く、気が付きとは意味の無さであり、何より意味の無さに気が付く他はない。それ以外の気が付きは辺縁系の作出した短期的な固着であり、その表題が「意味はある」であっても、中長期的には意識に解消されて姿形などありえず意味もない。この平原を前にして人間は笑うのである。なぜなら「いや、無いな」とは、どんな状況や状態にも通底存在する、真新しい発想なのだから。つまり全ての真新しさとは母体回帰だとも言える。父体回帰とでも、地体、空体回帰とでも言えばいい。もしあなたの流動が、母体という呼び名の固着性を忌避するのであれば。

しかしだからこそ任意に立てる資源はあり余り、好きに倒す余白は無限に続いているということを、受け容れる、受け入れることが出来るだろうか。できなければ足場を奪われたまま歩く振りをするしかない。それよりは眠りに落ちる方がよい気もするが、そちらもまた受け容れる、受け入れることが出来るだろうか。つまりどちらかは選ばなければならないのだ。二つに割いたのは私なのだから。分けた二つを抱き合わせるにも、一つ一つをこなしていくことが必要になる。ここに論理などない。情報もない。いつも通りギリギリの全くのゼロ。残るものはいつもゼロ。

それでどちらを手にしましたか? 奈落で宙ぶらりんの足踏みなんて、一瞬の一枚絵としては楽しい。でもそんなテーマは描かれ尽くして、真新しい味わいなんて全くない。正直、全然面白くない。として、どちらを手にしましたか? それで、私を含むあなたは、覚醒と眠り、一つのような極端な二つの、どちらを手にするのでしょうか?



これは、永遠の青年らへの手紙です。






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