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感情について
喜怒哀楽という図式には無理がある
そんな単線並列な図式は
私たちの心理の動きを説明しない
余りにも私たちの蠢きを漏らしている
という確信めいた違和感があった
ずっと ずっと
だからその違和感の正体をずるずると
私の言語世界から引き出しながら
私は「 感情について 」というカタルシスを
一人踊りしたいと思う
以下
画像は同じようなものを刷り込むように
反復して使用する
まずオドロキがあった
原始の感情として
感情の原資として
まずオドロキがあった
オドロキという原資が何に転化するのか
それはその時の心の傾きによる
または
あなたを驚かせた刺激ないし情報が
あなたにとって快と不快のどちらを催すか
そこらへんの機敏な天秤による
( もちろんこの時の快不快が、一人称に縛られない人もあるだろう。そういう個体の汎称性についてはまた別の話だ。 )
いずれにせよオドロキは瞬時に
あなたの心の傾きに従って
タノシミかカナシミに転化する
そうするとあなたは楽しむか悲しむ
それなら事態はフレッシュで
恐らくは苦しみもない
そうここには苦しみを産み落とす
そんなきっかけが潜んでいる
オドロキが心の傾きの通りに
タノシミやカナシミに消化/昇華されない時
それはヨロコビやイカリになる
ヨロコビとはタノシミに対して代理物であり
タノシミとはそれ自体で
同じように
イカリとはカナシミに対して代理物で
カナシミとはそれ自体である
( ここで一度、喜んでばかりいる彼女を、怒ってばかりいる彼を想像してみて欲しい。彼女は自分で楽しみたいのではないだろうか。彼は自分を悲しみたいのではないだろうか。 そのすれ違いをあなたはなんと呼ぶのか。)
( 特にヨロコビについて補足しておきたい。ヨロコビとは何についての感情だろうか。過去のタノシミや他人のタノシミへの感情ではないだろうか。つまりヨロコビとは、今現在のあなたについての感情ではない。少なくとも、ヨロコビはタノシミとの関係で発生し、逆は必ずしも成り立たない。またはここではそれをヨロコビと呼んでいる。イカリについても同様。 )
ヒトが自分の心の傾きを
深いところで感知できていなかったり
それに従い切ることのできない状況である時
オドロキはヨロコビやイカリといった
もはや擬似感情に転化する
それはある種のクルシミであり
代理物は量的に過剰になるというテーゼの下
感情へと消化/昇華されなかった心の原資は
クルシミとして底の方に堆積し増幅する
クルシミは引力を発して
あなたの心の重力となり
あらゆるオドロキを感情から遠ざけ
クルシミと総称される擬似感情に引き寄せる
この時に必要なもの
それは重力に抗う跳躍
許しのような飛翔というかユルシ
ユルシもまた感情ではない
擬似感情というより
擬似感情を感情へと反転する
そういうプロセスのことだろう
これには脚力がいる
ある種の苦しみが伴う
しかしそれはクルシミに留まる苦しみでなく
タノシミやカナシミを予感させる期待感
つまり希望とも呼び得る
許しの失敗/希望の挫折を絶望と呼び
絶望への予感を不安や恐怖と
呼ぶこともできるが
それを今ここに書き込むことはしない
一番大事な心の動きではないから
つまりもう大事なところは描き切ったと思う
私たちの心の動き、蠢きは
喜怒哀楽という単線単調な図式では
漏らされてばかりで浄化もされない
ここにもいると思う
怒ったり喜んだりばかりしているあなた
自分を許して悲しみ
出来れば楽しんでください
そうして感情を取り戻してください
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注1:
以上の議論には発生学的な、系統発生的な見地から反論を受けるかもしれない。例えば、「怒りは他の感情に進化的に先行している」等。
しかし私は「システムの発生プロセスはシステムの現在の働きではない」と言いたい。発生において時間的に先行するものが常に、後行するものの原因や原資となるという発想は、因果的発想に囚われた因果的思考であり、基本的に現状を見誤らせると思う。
システムや有機体という言葉は、「あらゆるレベルや枠組みで捉えられたあらゆる要素が、他のあらゆる要素の原因でも結果でもある(ような渾然(一体))」を指しているのだとして、私たちというシステムは進化の歴史に囚われることはないし、そもそもとして進化も歴史も、私たちという現時点を記述し切らない。
注2:
オドロキという感情の原資が、ヨロコビやイカリという擬似感情に(擬似)転化されてしまう原因について、「そのオドロキが自分にとって快か不快なのか感じ取る、感じ切ることができない状態にあること」と書いたが、その原因は
・心理的に未分化未発達または過分化過発達(つまりそうする素地や能力がない)
・処理遅延(驚きの連続で暇がない)
の2つに分けられると思う。(というより、能力と実際、可能性と現実性とも言える基本的な(二元相補的な)見地や観点から整理するとそう言わざるを得ない。)
さてつまり、現代には後者の理由、驚きまくりの処理遅延によって喜びと怒りを往復し続けている人が多いと思う。彼らをADHD、躁鬱病者、何と呼ぼうと構わないが、彼らの心の実際の動きとしては、喜びと怒りの間の、許しも満足も報いもない、些末で膨大な驚きに忙しないだけの往復運動があるように思われる。
つまり時代の条件を引き継いでいるのだ
余りにも無垢に無防備に
なので罪はない
注2への注1::
「 二元相補的な見地や観点 」とは明暗や上下、左右、前後、優劣といった、究極的には上下か左右のような、最も基本的な認知(認識?発想?)の枠組みを指す。所謂西洋的。
「 二元循環的な見地や観点 」とは陰陽や仮空のような以下略。所謂東洋的。
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