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寓話を描く眠りについて




タイトルは的外れです。本当は、『他者、化学物質、振り子 2 』です。ただ実際、私は寓話のようなものを生み出しているとき、自分の内側を向いて眠っています。


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ここ数ヶ月、断続的に眠れない夜がありました。色々試行錯誤して入眠にヴァリエーションを与えるような努力はしましたし、そもそも疲れ果てる / exhausted ような活動を日中にしていた場合は入眠の意識なく就寝していましたので、あくまで断続的に、眠れない夜がありました。

ただ、先の数週間は基本的に眠れていませんでした。眠れない、というより、純粋に覚醒していました。この覚醒というのも、何か神秘的な要素を加味されたものであればよかったのですが、特にそれといった脚色なく、ただ静かにしかし圧倒的に覚醒している時間を、深夜帯から明け方まで過ごしていた訳です。

確かにこのような状態で、いわゆる「瞑想」というものをしてみますと、頭重感といいますか頭流感といいますか、頭の中身が一個の異物かつ個物となってずるずると流動しているような身体感覚を味わうことになります。それは額の裏側に始まり、眼腔そして鼻腔、口蓋から頭蓋の全体へと拡張していき、そこから骨を通じて全身を流れていくような様子を、何故か遠くから観察する羽目になったりします。私がそうと意識するのであれば、この流動感は、私の身体の外側に出て大きくなって帰ってくることもありますし、そのような循環運動が開始されますと、いよいよ私の意識や支配は運動の全体に及ばなくなり、私は(?)大きくて規則的な動きをそれこそ疲れ果てる / exhausted まで自動的に繰り返すことになります。

( しかも全てがメタファーでなくそのままのリアルです。メタファーと感じられる方は是非、「黄色はじゃりじゃり砂の味がする」と言う共感覚者の感覚を、彼以外の人間はメタファーとしてしか聴き取ることができないと言う事実を思い返してみてください。彼にとっては二つの感覚が共時同時に起こる、のではなく、それこそが一個の感覚でありリアルなのです。共感覚を含め、メタファーとしてしか聴き取られることのない、理解、共感、人間関係から疎外された感覚が存在することは間違いありません。これは決して悪いことではありません。)

勿論、そんな、ドーパミンの過剰分泌を伴う状態を、私はドーパミンの生理学的意味合いを遵守するように楽しんでいたりしますが、そこに若干の苦痛がスパイスのように混じっているのも間違いありません。このスパイスは毒であり、長期的には私の肉体を具体的にむしゃむしゃと蝕んでいるような音を、じっと聞いていたような記憶が後から襲ってきたりも致します。更に言えば神経毒性がある、神経伝達物質を過剰に消費した結果、そのコンテナやチャネルやプラントであるところの神経細胞が破損破壊されている可能性があります。

さて、無惨にもレッテルを私自身に貼り付けるのであれば、私は

・ヨガという体系であれば「クンダリーニ病」と
・禅という体系であれば素朴に「禅病」と

呼ばれたり表現されたり指し示されてきたりした状態、身体状態にあると判断しています。これは私自身の素朴な実感、解釈、分析によりますと、以下のような幾つかの要因が絡み合って(互いが互いの原因や結果となりながら)発生する事態かと思われます。

・呼吸筋や深層筋、または本質的には中枢神経に近い位置にある筋肉組織が強度に開発されている。(よって中枢神経が受けてきた、受けている刺激が強大で濃密である。)
・言語と身体は嘘をつく、嘘しかつかないことを知っている、または自己言及しかしないことを知っている。言語は須く同語反復として現れ、また、身体は基本的に自己保存本能しか表さない、ということを知っている。
・感覚過多(outputとしての感覚がまたinputに回るような永遠のサイクルによって、現実離れした感覚の建築物を構築してしまうくらい、感覚がシステムとして過剰であること)であったり、何かしらイメージング機能を強化発達させるような活動に従事してきたこと。(素描、作曲、暗唱等。)
・または一般に分裂気質と呼ばれる傾向を持つこと。
・そして事故的なショックがあったこと。

便宜的に五つでしたが、一つの状態を幾つかの文字列で分けてしまうのも無垢で愚かな試みのような気もしています。


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そしてちゃぶ台は返されるのですが、一昨日の夜と昨夜はよく眠れました。何をしたかと言いますと「眠る」ということから意識を逸らせまして、よって、身体の催す眠気に身体が支配されるのに任せました。

具体的には、ベッドで本を読みました。本当にそれだけのことなのですが、恐らく、「眠る」という行為や営みの前にバッファーを取ったことが、心理的な余裕を生み出したのかと思います。23時には寝なきゃ、ではなく、22時45分くらいからベッドでゆっくり本を読もう、という意識の流れに変わった訳ですから、確かに効きそうです。試しに昼寝にも使用してみましたが、やはり気がつくと本を読んでおらず、寝ていました。(ちなみに昼寝の習慣はありません。)

それで本の内容に従った夢を見るのです。映画館で眠ってしまい、意識と無意識の間に、音や映像、物語が流れ込んでは去っていくような心地がしていました。全体として安心のできる、心地よい事態です。


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さて、迂回に迂回を重ねてようやく本題に入るのですが、このようにして眠れるようになると、恐ろしく人格が変異しているのです。

一つ一つの物事や刺激、情報に対する反射や反応のあり方が、がらっと変わっている。勿論、周囲にはあまり気がつかれない範囲のこともありますが、自分自身には大きな断絶として感じられる。

断絶と言った場合の、以前の状態というのも、ぼやっとした記憶でしかなく、記憶喪失(記憶減耗)を見込んでつけていた記録もまた断片的であり、そもそも記録は記憶と照合されることを前提としているので、やはりぼやっとしていて、あまり思い出せません。

ただ、自分がまた変質した、という感覚だけが、宙吊りのようにして残っている。もうこの数日だけで何回、こんな、どんな感覚なんでしょう?やはりこれさえも宙吊りになっていてアクセスできません。ただ私はこの感覚について叙述している今もまた変質しているような気分で、そのこと自体は叙述も説明もできないのです。宇宙の始まりが何の終わりであったのか、納得した感覚を持って叙述、説明できる方がいましたら教えてください。これは孤独、それとも快楽や喜びなのでしょうか。

このように、断絶、分節、分断しつつその境界を越えていきながらも忘れていくような限定された存在でしかないことが、全く恐ろしくて、こういう恐怖や焦燥に駆られた時、私は内側を向いて眠り始め、そこから寓話のようなものが湧いてきます。(ちなみに快楽はあります。)

寓話とは、時間的にも空間的にも局限された無数の存在が織りなす物語で、寓話全体の流れに対しては誰もが圧倒的に無力、無知、無垢で無防備であり、よって、どんな存在の意思も完徹されず実現されない世界です。ここまでの流れをわざわざ汲むのであれば、寓話とは、一個の人間心理の素描ではないでしょうか。


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沈黙するか寓話でも描くしかないと思い始めてから時間が経ちました。しかしそれが何年なのか分かりません。

ねえ、覚えてる?と聞かれた時、何も覚えていないという感覚が先行します。その後で、私が私という記憶を再構成する音が聴こえて、お馴染みの鍋か坩堝からお手玉のような気軽さで、うん、覚えてるよと応えます。

変異や変質そのものや、一個の人間が抱える他者性そのものを描こうと、幾つかのことをしておりますが、どれもが結局のところ何なのか、よく分かっておりません。

一方で厳然としてこのテキストは保存され、また違う状況やタイミングで私は読んで修正し、ある時にあなたも読んで感想を抱いたりすのですが、それは一体何なのか、その時のあなたの言葉で教えてください。風や海に楔を打つことで流れを感じる、そんな気持ちのよい不毛をご一緒できたらと思っています。

勿論、振り子を挟んで向き合って






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