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散逸流動超パースペクティブ構造(ゲーム)



姿形

視点・観点

側面( 眺望 )

他者・つまり分布(のバリエーション)

姿形

現実という語は
支点、始点、立脚点
としてのみ語られている

想像は
現実を支点、始点とした
現実に立脚した
現実


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ある姿形があり、それは例えば立方体で、ある視点から一つの側面を見ている。その側面をそれとして見ている一方、というより他方で、他の側面も見ている。つまり現実に一つの視点・観点に自らを据え置いて一つの側面を見ながら、想像として他の視点・観点に自らを据え置き他の側面も見ている。一つの視界は濃淡を構成して一と多を同時に写しとっている。中心を成す現実の一と周縁を成す想像の多は組み合わさって一つの実在を生んでいる。そこからそれを見ながらあちこちからそれを見ていることに区別、少なくとも前後はない同時達成や相因相果であり、このような再帰的共依存的なマッチポンプを経て私たちの認知は認識に上がる。

で?

ひとまずそれでは終わらない。まず持って周縁を成す想像の多の内の一つの視点を想像した瞬間に、そこからそれにとって周縁を成す想像の多が繰り広げられ、そのことは元の想像の多の内の如何なる一についても同様であり、また更に、多産の孫のように生み出された「「周縁を成す想像の多」の周縁を成す想像の多」のそれぞれについても周縁を成す想像の多が存在する。現実を中心に想像が生まれた瞬間に中心が想像に移りそれを中心として想像が生まれることを繰り返す。波紋の粒子それ自体が波紋を生むことを繰り返すような事態が水面に自己展開されていく。

で?

しかもそれでも終わらない。何故なら第一に、私にはこれ、波紋の粒子が波紋を生むことの全て、全ての波紋の姿形と姿形を構成する粒子の位置と運動量とか、または元の表現に立ち戻り以下のように記述しようか、

「・・・「中心を成す現実の一と「中心を成す現実の一と「中心を成す現実の一と周縁を成す想像の多」の周縁を成す想像の多」の周縁を成す想像の多」・・・」

これをこの通りに認知することはできない。言い換えれば認知に認識を効かして認知を無限に拡張することは、私にはできないし、そもそもこれを認識として咀嚼し切ることさえできない。

では、最悪なことに、何がどこまで出来ているのか?

そのことは記述できるのか?

完全な認知は記述こそでき実現はされないが、不完全な認知は実現されている一方で記述されないとして、私は不完全にさえ認知できているとなぜ言えるのだろうか。ましてやここには実際として、私とは別に不完全な他者が混ざり込んでくるのだ。複雑性はどちらにせよ爆発している。完全な認知を実現している唯一者のみが存在している場合でも、異なるように不完全な認知を実現している複数人が同時存在するような場合でも。どちらも無限に複雑であるが、記述の可不可で言えば、前者は誰にでも描けるが後者は誰しもにとって無理である。寓話の方が唯一神より難しいのだ。

記述不能な不完全認知、の任意の組み合わさりが、目の前に姿形を生み出して、それを私は立方体と呼んでいる。ここでの任意の組み合わさりには、誰もが参加し誰もが去っていく。それを立方体と呼ぶ必要がもう分からない。ただ一言、散逸流動超パースペクティブ構造とだけ呼べばいい。全ての姿形はここに還元される。誰も記述はせずに実現している。

私は一つの視点から一つの側面を見ながらそれと同時に他の視点を想像してそれぞれの側面を想像することで対象をそれとして立体として生み出しながら想像された視点から同じような構造を更に想像しつつ同様の過程を自らとは異なる度合いや範囲で行う複数の他者が自らと同じまたは異なる視点から対象を見ていることを認知している。というような認知がまばたきの度に生まれては捨てられる。ことを私の他に他者もそれなりにしている。のを上から神が完全に眺めている。のを

そうここでは殆ど何も記述されていない。認知自体を認知、記述自体を記述しようとしたときには情報量は絶対 0 だから。なので意味のない言葉を一つ、始原の底に埋め込んで忘れよう。散逸流動超パースペクティブ構造。散逸流動超パースペクティブ構造。散逸流動超パースペクティブ構造。これは、これにこれとしてアクセスするゲームだ。その先の体感は記述できない。


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なんて下らない営みだろう。「無理なく整然とした記述」を記述することを進めても、凡そこのような記述文章しか生まない。ここには揺らぎも破れもない。だから物理的に破り捨てたくなる。その欲動と衝動こそが生であり、生は記述でなく少なくとも版画されるものだ。こうして私は今日を眠る。夢の私を喰いに出かける。







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