寓話 『 ふれる 』
その森は横断する人が一生を費やしても足らないほどだったので、街を捨てたある人は一歩を進む毎に森の闇に浸されて、最後にはただ黒い獣のようになっていた。人である限り誰もその化け物の姿を見ることはなかろうが、もし見たのならそこに続く闇があるとも思わずに通り過ぎるか、もしくはまた鏡を覗き込んでいるかのように思っただろう。そこにまで至るものは須く闇を引き受けた獣になっていたであろうから、同じ運命が相互に覗き合っていると言う他なかったのだ。
そしてある日の暮に一人の修道士が、そんな話を知ってか知らずか森へ迷い込み、奥へ奥へと進み始めた。地図などあり得ないこの森を祈りのみを頼りに進み続けた。彼をよく知る人は森へ入る日の朝に彼がどんな風であったかを周囲に説いて知らせた。あれはイヴを捨ててサタンに期待し始めたアダムの顔であったと。しかしその修道士の母を含む、含蓄も教養もない多くの庶民は、ただ彼が孤独に思い悩んでいたことを思い返して自らの無力を刹那に苛み、そして翌朝には日々の糧を得るための労働を再開した。その間にも修道士は深い森の闇の奥へ奥へと進み、一方で街に残された彼の友人は悩みを深めていった。なぜ誰もが「彼」の孤独を理解しようとしないのかと。
さて、それはまた同じ物語の違う回であるので、ここでまた森の中心へと耳を傾け、そこにある濃密な無音を味わってみよう。よく聴けばこれは無数の微かな囁きが織り重なって出来ている。しかしそのどれもは微か過ぎて聴き取ることができない。いや、その中にただ一つだけまだ失われていない声があるようだ。最初というより件の修道士の祈りの声だ。彼は既に森の闇を信仰しており、着古した白装束は闇の黒を吸い尽くしていた。祈りの声は虚無に向けられ、それも遂に途絶える頃に黒い獣に出逢うまで、もうあとほんの少しだった。そして新月の夜に合わせてその時は来た。
修道士はそこに闇の中心があるかのような、それでいてまた自らを写す鏡があるかのような気がした。とかくその、人一人分くらいの場所には、あらゆる光と声を吸い込む奈落があるような、または光無く永遠に乱反射する合わせ鏡の片割れがあるような気がした、と、その時になって初めて修道士は自らもまたその闇の中心の程近くまでは黒くなっていることに気がついた。そうして闇の中心へのどうしようもない引力を感じた。
ああ ああ 彼の発した呻きはこの程度のものであったが、内心の葛藤は渦巻く花火のように踊り狂っていた。
ふれたい ー なにに?
いきたい ー どこへ?
おわりたい ー なんのため?
彼の心の傾きがどこへどちらへ頽れるかは神のみぞ知る妙であったが、神という光さえも絶えたその一点で、恐らくは最も根源的な欲求のどれもに突き動かされて彼は黒い獣、闇の中心にふれた。そしてこの最初の接触の一瞬に、未来永劫正体不明のウィルスが二人の間に生まれ、まだ中心に座していない一方を原初のキャリアとして世界中に拡散し始めた。
修道士は「ああ、ああ」という呻きのみを発しながら森の外へと激走した。自分との間に不可思議な病原体を産んだ更なる闇には目も暮れず、森の外へ、元の居場所へと疾走した。彼は自分の生まれた街とそこに居る人々、彼らとの交わりを渇望していた。この時点では明らかでなかったが、それは窮地に追い込まれた社会的動物の本能というより、それこそがこのウィルスの唯一かつ絶対の作用だった。街に辿り着いた時の彼は、着衣のみならず皮膚の隅々まで黒に染められ、光を失った目の粘膜は瞳までもが充血していた。そんな彼を見た者らの内、やはり母と友だけは「ああ!」と言って彼を彼として迎え、そうして次なる感染群となった。
以後、このウィルスに感染した者は気がふれたようにふれあいを求め、そして気がふれた者同士がふれあう時には死んだ。そのシンプルな原則を書き出すと以下のようになる。
①感染した者は同種の生命を求めて疾走する
②感染者がふれると感染する
③感染者同士がふれあうと双方が死ぬ
もしこれだけの原則であればこのウィルスは当初または即座に絶滅していたであろうが、若干のポエジーと自然へのエレジーを感じさせるもう一つの原則があり、そのために人類は十年を待たずして絶滅した。感染させられた者は自らを感染させた者だけは求めずに、感染した瞬間から逃避するのだ。産み落とされた直後に母の下から疾走する早熟な子のように、子は母に反発して次なる繋がりを求めて拡散していった。更に加えて厄介なことに、感染してもその付近ではふれあいを求めず、そこではないどこかへと移動してから誰も知らない土地でふれあおうとする変種もあった。以上の原則と例外からなる感染模様をシミュレートするモデルは人類の記憶から失われてから久しいが、暦さえもが失われた世界での時間感覚が正しければ、私が最初の感染を目の当たりにした時からもう数年が経過しており、そしてその頃には、数式のように決定された破滅の運命を生き残った全ての人々が予感していた。勿論、そんな終末を期待確信する幾つもの宗教が生まれては消えていった。
しかし後から推測するに不思議な事情も散見された。なぜ人々は立て篭もって社会そして文明を継続しなかったのか。実際にシェルター様の空間で再建された秩序の一つや二つはあったようだが、そのどれもが閉鎖を継続できなかったらしい。それらの残骸を一人で歩き行くだけでは窺い知れぬが、もしかすると閉鎖の孤独と絶望に耐え切れなかった者が門を開けて外から孤独を招き入れ、街を虚無に帰したのかもしれなかった。一つの街の残骸の入り口あたりに、満足そうな表情を湛えた頭蓋が残され日に照らされていたが、彼女はかつての友か恋人を迎えようとして門を開け放った時に背後から殴打されて死んだのかもしれない。彼女の無謀と虚無を阻もうとした者は街の奥の方で死んだのだ。彼女の周りには他に遺骸が残されておらず、代わりに街の中央、広間のような空間に星座の如く散りばめられていた。出る門も入る門もあれ一つで、入った後には出るまでが遠く閉ざされていたのだろう。シェルター街を囲む高い壁の一辺の内側には一人、壁に背を当てて座り込み絶命したような一つの白骨があった。このような物語の名残が同じようにどこそこで散見された。
しかしながら地球という一つのシェルターで最後に演じられた物語はまた別の様であった。感染が地上洋上のあらゆる居住空間を踏破しつつ繋がりによってその連なりを喰い尽くしかけたその一歩手前、最後に二人の人間が残された。一人は感染者でありもう一人はそうでなかった。この二人の求めと拒みだけに最後の一年が費やされて、彼らは付かず離れずあらゆる手段を使って地球を巡りに巡り、山山を登っては降りて時たま私の夜の森の本当の闇に近づいてはまた離れ、そして最期には砂漠と打ち捨てられた都市の狭間で邂逅した。二人は向かい合って留まり、そしてぽつりぽつりと話し始めた。
「私が貴方にふれると、もう求めることもできないね」
「うん、全ての拒みが終わって一つの求めが永続する」
「それは寂しいことだろうか」
「多分今よりは幾分」
ここで数日の時が過ぎ、一見して最後の感染者は自らの症状を抑制しているようにも見えたのだが、ふるえを抑え切れなくなったその数日の最後に「じゃあ、やってくれるね」と、まだふるえていたもう一方に問い掛け、するとその時にその者のふるえも止まって「いいよ」と返した。
ここで数年の沈黙が流れ風が吹いた。あとにはただ砂漠、そして重なり合う白骨と、その向こうに幾つもの都市の残骸が見えた。原初の片割れである私は陽の光に黒を洗い流し、求めも拒みも失われたこの清浄な世界で、空に向かってただ一言を語り始めた。
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