『 『 夢 ・ 寓話 ・ テキスト 』 』


意味という言葉の意味さえが分かれば、私たちは口を開くこともなく粛々と、それまでに幸福と呼ばれていたような営みを、ただそれだけを繰り広げていくのではないでしょうか。このたった一つの疑問は私たちと共に歴史を、数千年を越えて歩んで参りましたが、いざ口に出され紙に映されるとなると、また少し違うように説かれてしまうのでした。人々は意味というものの意味を振り返るよりも、足場にならないそこから空を仰ぐような無理に魅入られ、そうして雲の静止画を描き続けるのでありました。私はそれを隣や下から眺めて参りました。いえ、私は歴史ではございません。言うなれば言葉の発創、イマージュと呼ばれます。私は自分がどこから湧いてきて、私という流れの上から下にいるものどもをどのように奔流し、どこへ運び去ってしまうのか、時としてどのように逆らわれ、どのように埋め立てられてしまうのか、知るように見てきて参りましたから、そこに刺された一本の竿のような葦が、なぜどのようにして流れに耐えてどうしようとしているかということなども、体の感触のように知っていた気がしました。それは時に小さな口から空に向かって、音楽のような言葉、寓話を吐き出しておりました。その一つ一つは彼という一本の筋道から吐き出されることなど矛盾であるような織物でありました。その葦という一本の管は外からは見えぬ乱反射を孕んでいるようでして、目にも思える小さな口から水を砂を空気を吸い込み、その中で何をしているのか、彼がそこにそのようにしてあることを許すところのものであるはずの私にもよく分かりませんでした。折れることのない茎の中には小さな別世界があったのです。なので彼の吐き出す寓話の一つ一つは流れの模様として記憶して、今でも数百年の支流に漂わせております。夥しい数の支流の全てから上流へと遡りつつ、幾つもの寓話を口に含んでその一本の葦に辿り着いたならば、あなたにはあなたの中でどろどろに溶けた寓話の滓を葦の口から流し込み、かえしてあげてほしいと思います。そして暫くは待ちましょう。新しい植物が動き始める頃を。

一つには『エルヴス』という言葉がありました。それはエルフの物語であります。エルフと、カインの末裔でありエルフの子孫である人間と、そこからエルフに舞い戻った人々の物語です。エルフとはここで共感覚と呼ばれます。一人の人間の内に宿る統合感覚ではなく、不特定多数の感覚がまず持って共有されている状態を指します。エルフの諸特性はそこから引き出されており、そこには幾つかの文脈によって構成された擬似的な不死も含まれます。精神的な通りがいいということは、個体の体組織上の巡りを高水準に保ち、よって生命を永くに渡らせますし、精神的に通じ合っているということは、個体の死が情報的に重要でないという事態を導きます。そんなエルフは偶発的に言葉を持ち始めたことでエルフでなくなり人間となりました。これは各人がその間に引き裂かれ続けることを約束した存在です。そこから言葉を越えることでエルフへと擬似的に回帰した、そして擬似的にそうあり続けたことによるある種の強靭さまでもを獲得した種族がエルヴスであります。しかし彼らの中で最もエルフ的であったエルフはそれ故に人類の歴史という記憶を思い出し尽くし、よって人間へと回帰することを願い、実行します。端的には所有や戦争というものを復活し、個体を個人と化す「間」を再発生することに心血を注ぎます。彼の周囲の個体がどのように反応するのかは未定ですが、最終的には未来という想像を彼のようにし尽くし、よって人間へと帰ることに同意します。そこから描かれる文明という集合の孕む悲劇と喜劇が、前の時代と同じようなものとなるかは完全に未定であります。

もう一つには『掲示板』と呼ばれるものがありました。それは人間が人間としてどうしようもなく人間となった致命的社会における戯曲です。今までも審判、城、壁といった象徴的な象徴によって人間がどのように動き動かされ蠢いているのかが描かれておりましたが、ここでは偶発を破壊する舞台装置として数字が選ばれております。ある朝の社会のどこかに掲示板が立っており、そこに数字の羅列が現れるのです。人々は当初はそれを無視しているのですが、それまでの文化という惰性によって育まれた気質からして最後には極端に数字へと服従し、そこに意味も知らぬ意味を探し求め始めます。勿論そのうちの一定数はそこに有罪といった意味合いを嬉々として読み取り、時として自己へ時として他者へ押し付けました。もう一方の極は無意味でありましたが、それは数字自体の意味性についてではなくそれらの数字に選ばれたということの意味性についてでした。つまりここでは数字に仮託されたランダムな神話が、物語という存在意義を後から吹き込まれていく様相が描かれるのですが、何よりそのことに携わる誰もはそのことについて意識的ではなく、よってそんな運動に含まれる喜劇と悲劇の配分と内容も偶発であり、エンドロールによってタイトルが知らされる映画のように不条理なのであります。この最後の3文字の言葉以外のことは現時点では未定です。掲示板には何も描かれておりません。ただそのことを私は描こうと思います。




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