Boléro Canon AveMaria





ご自由にお書きください

書くことの自由に浸ることができるなら

その音楽を聴きながら





君は物事の本質ってものに気が惹かれているね。どうして目に映るものや手に触れるものの感触や、そこから生まれる感情を、素朴に信頼することができないんだい。

どうして。考えたこともなかったな。というのは途轍もない嘘になる。何故かというと多分さ、五感や喜怒哀楽っていう、感覚や感情の殆どは、自分が今の自分のままで生き残っていくこと、そのために存在し機能していると思うから、なのかな。

そう、そうであるとして、それでどうしていけないんだい。君は君のままに生存したくはないのか、いけないのか。どちらについても、ないとして、どうして君はそう考えるようになったのかな。

Boléro を聞いた、聴いたんだ。そしてたらそういうことができなくなった。そういうことを、求めてはいけない、繰り返してはいけないと思うようになったんだ。

へえ、繰り返すけれどそれまたどうして。Boléro がそのようなメッセージを持つことに、私は思い至らなかった。Canon を聴いたときにも。

AveMaria は?

あるいは AveMaria はそうかもしれない。信じることは生きることからはみ出ている。信じることは確かに、生きることをはみ出ながら導いている。あの歌はそういうことを謳っている。

うん、僕はそれらの音楽から、信じるってことを聞き取ったんだと思う。そして信じることってのは、生きることからはみ出ているし、生きることを導きながら、生きることを置き去りにすることにもなるんだ。それでね、

それで?

僕は信じたいと思うようになったんだ。

何を?

信じることの力かなあ。

随分と分かりやすい話になってしまったね。君にとっての物事の本質ってのは、つまりはともかく信じるってことだったのかい。

そうだね。そう言えると思う。僕にとって物事の本質ってのは、信じるってことなんだ。特にまずは信じることの力をね。

信仰、じゃあ信仰は君にとって、感覚や感情に優先するんだね。

うん、というより、信仰と関係のないような感覚や感情からは、出来るだけ距離をとっていたいんだ。出来るだけ遠く、というよりは、程よく穏当な距離感で。

聞いてみると素晴らしい心掛けだ。私も見習いたいと思う。しかしだね、君な何を信仰するっていうんだい。まずは信じることの力そのものを、だとして、その次には何を。まさか信じることを信じることを信じていくような、そんな閉じた繰り返しにはならないだろうね。

そうはならないよ。信じることの力を信じたら、その次に、その次にあるべきもの、無内容を、無内容であることを信じるんだ。

無内容を信じる?

うん。なんでもよかったことを信じるんだ。

それは任意性、という言葉に置き換えてもいいかな。

なんでもいいんだ。無内容でも任意性でも、なんでもいいし、なんでもよかったということを信じるんだ。

なるほど。しかしだね、無内容であれ任意性であれ、そういうものを信じてしまったら、およそ信仰というものが求めるような、実践ってものが生まれないんじゃないか。または何でもよくなってしまう。それは信仰としての機能を果たしていると言えるかな。

そうだね。だから信仰はその次に目を向けると思う。まずは信じることの力そのもの、次にあらゆることについての無内容とか任意性、そして次に、今の目の前の現実に。

目の前の現実?それは、君の言った無内容とか任意性ってものと、どういう関係を持っているんだい。私には行って帰ってきただけのように感じるのだが。

いや、目の前の現実は、無内容から取り出され、任意性から選び取られたものなんだ。それとしての現実を信じるんだ。

一体全体、誰が取り出し選び取ったというんだい。

僕なんだ。僕が取り出し選び出したんだ。というより、僕は取り出しと選び出しなんだ。そのことも信じるんだ。いや、ここで初めて、物事を感じるんだ。

ここに来て君は物事を感じると来た。でも何を?私にはまだ掴めない。

信じることの力、無内容や任意性、そこから取り出された内容と、そこから選び取られた随意、それらとしての現実、そんな取り出しと選び取りとしての僕、そのような全体、つまり物事、物事の本質を、感じる。

それは君の新しい感覚だ。ある文化圏ではそれを空や無常と呼ぶ。よろしい。それでは君の、新しい感情は?

名前は分からない。音に押し込めるには複雑なんだ。音楽で表現することはできる。

では聞き方を変えよう。その楽曲、交響曲か協奏曲は知らないが、その音楽の名前は?

享楽、慈悲、残酷

随分大層な名前だね。

名前とは大層なものなんだ。大層さで現実の微かな手触りや繋がりを、覆い隠してしまうものなんだ。

ああ。それは言葉一般に言えることだろう。人称でさえそうだ。君や私、僕や君、それにあなたといった人称さえもが、わたしの手触りや繋がりを、わたしという手触りと繋がりを、ヴェールの向こうに押しやってしまう。そうであるとして、今これからは君のことを、なんと呼べばいいんだろう?私のことは?

何とも言わずに、一緒に音楽を聞けばいいんだ。隣り合った場所から音楽を、聞いていればそれでいい。

何を?どんな音楽を?さっき挙げたどれを?

流れてくるものでいい気がする

教えて欲しい。今流れている音楽は?

不思議と今は Gymnopédies かもしれない。

ああ、なるほど、確かに揺れている。とても楽しく、悲しく、怒りに揺れている。この感情は何だろう。

何だろう。夢の中でなら分かると思うんだ。だから眠ろうとするんだ。

分かった。じゃあ眠ろうか。

そうしよう。もう眠ろう。本当は殆ど、眠っていた訳だし。

  ああ、眠れるものなら。

うん、眠れるものなら。  

  君が許すことができるなら。

僕が許すことができるなら。 

わたしが許すことができるなら












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