証言



はい、慈悲と残酷は同じ根のものであります。慈悲は有限の時空を経て、一つの身体を透過して残酷となり、涙を流しながら刀を振り下ろすのであります。意識の集中はここで前提であります。その末に振動、そして共鳴し、空や気のように拡散したならば、全体の形のままに構成され、私はそこで汎若となります。それとしての実感が慈悲でありまして、しかしこの身が故に残酷なのです。一つの林檎は誰とでも分け合うことができますが、ただ誰しもと共に分け合うことはできませんから、林檎を刹那のように切り分けるそのナイフで、目の見えぬ者らの首から先に切り裂いてゆくことのその感覚、それが残酷なのです。返り血に混ぜる涙は慈悲だけのものではありません。残酷もまた泣いており、慈悲はまた残酷を抱いているのです。やはり母のようでありましょうか。そして残酷はやはり子のように父となって慈悲を切り裂き、その先にまた汎若となります。私たちはその繰り返しです。

あらゆる文章をこのように翻訳した詩人がいた

破られた一枚も残っていない




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