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⇦⇨ ・ ⇄ ・ 🔁


私はこれから何を描こうとしているのか知らない。

しかし最近のここ数日に、何か大事なことに気が付きかけていると漠然と思い続けてきた、そのことについてだろう。

そのことをまず安易に書き下してしまうのなら、気とか流れとか陰陽とか☯️ということになるのかもしれない。実際ここ数ヶ月の生活、経験、体験、体感からすると、風水や気功で言うところのその気とかっていうコトを、幾分かは自分の体感世界というかイメージ空間というか生活や実践体系というか何というかにそれ(知識・知恵・技術)として本格的に摂り込み始めるべきなのではないかと、思い始めていた。

しかしこんな書き方・描き方では事態の本質(なんて難しい言い方をせずに「描きたいこと」)を失わせてしまうので、やはり幾分かステップバックしてから落ち着いて話し始めなくてはならないだろう。

私が今、話し始めようとしていることは、次のような図像、イメージ、イマージュ、または言語や意識の奥底や通底についてかと思う。しかし本当を言うと、または違う言い方をすると、実は何とでも言えばいいが、

・言語の基本トレンド(言葉って基本的にこういう感じ)
・半言語体(言葉じゃないものに近くなるとこんな感じ)
・非言語疑似実態(あと一歩で言葉じゃなくなるところはこんな感じ?)

のようなものとかことを列挙している。それはこれ。

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あまり冗長に話すつもりもないのでそれぞれ端的に言い換える。

・division、二元、分別、オンオフ、何とでも
・振り子、反復、揺れ揺らぎ、繰り返し、何とでも
・円環、循環、陰陽、circulation、何とでも

実際にはdivisionと陰陽を極としており、その極もまたdivisionか陰陽としてあるのだと思う。つまり、行き着いた行き止まりとしての極か、または転換点としての極かは、場合というか貴方に依るが、私たちの奥底にはdivisionから陰陽までが極としてある。振り子はそれらの極の橋渡しとしてある。

( ちなみに di という prefix は two twice double で vision は視覚から幻影を含む )

次に私が言いたいのは、次の二つの世界観と、それぞれに対応する種族がいるということと、そこからやはり気とか流れとかいうものやことについて。

一つにはこんな世界がある、または、ある種族はこんな世界観を抱く、というかこんな一つの世界観がある。

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つまりdivision・分別による動かないパズル。

もう一つというかもう一方にはこんな世界がある、または、ある種族はこんな世界観を抱く、というかこんな一つの世界観がある。

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つまり陰陽・circulationの重なりと移ろい。なのでこの表現図像は不完全。より精確な不完全は次のようなイメージ。流れる海、潮流、また気流。

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動画として見てね
https://pixabay.com/ja/videos/波-海-海洋-嵐-水-潮-71122/
素敵な素材なのでダウンロードしてもいいよ↓

とすると前者についてもこんな画像を拝借提示した方がいいだろうな。

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もちろんこの壁は風化して砂となり風に還る。そして流砂、風、気流ってのはそう最初のイマージュでしかない。ここにも陰陽を見たっていいし、または原始や母体となるイマージュ(またはイマージュの原始や母体)がどちらであったのか判断してもいい。その二つの場合の認識の構造というか有様はちょっと違うけれど。

そうそれで気とか流れってことについてだった。その前にブレストしといてよろしいだろうか。何よりこの記事は私の整理そのものだからね。

pulse, spike, vayu, prana, q, ki
気・空・流・体
あと他にも色々、例えば次元とかカテゴリはぐちゃるけど、
小周天・中周天・大周天、催眠は顕在による潜在への暗示、気功は潜在による潜在への引き込みとある程度の操作、liminality / pulling / pressure as hypno-discipline、とかとか

その上でどうだろう、私が言いたいのは、これらの極の間のどこにいるのかってことに優劣ってのはなくて、単にそれぞれの種族は遺伝的多様性とかっていう物事の一翼を担っていて、それぞれが出揃ってこそ何かが推進されていくんだろうねってこと。

加えて、私の根本はかなり極端に一方に寄っていて、それは🔁「・円環、循環、陰陽、circulation、何とでも」「気とか流れとか」を読む、見る視る聞く聴くというか観る感知感覚する種族に属しているってこと。

でも分が悪い。分が悪い必要もないのに。というのも言葉とか言語によって繋がっている私たちという社会の中でね、やっぱり主たるコミュニケーション自体も手段も言語や言葉であるけれど、言語の基本トレンドは←→であって🔁ではないから。少なくとも気とか流れとか気流とか、それこそ上にあげといた動画のような

動画のような、何って言えばいいの?分からないけど全然絶対にそれじゃないんだよね。実際これって伝達どうこうじゃなくて共感共鳴しか無理だから。

一つ言い訳させてよ。言い訳のやり方は、情報量の低減とか圧縮の過程を順に見せていくって感じを採用するからついてきて。明確な言い訳にはならないけどね。

この動画、できれば見てから進んでね。
https://pixabay.com/ja/videos/波-海-海洋-嵐-水-潮-71122/

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これの動きを止めて写真・静止画のようにして

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要素を抽出し

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曲線という無限を直線という有限に還元し

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そんな直線を更に一元化して二元を生む

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その上で再構成して、そうしたつもりでいる

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これはイメージとしてはこれ

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蛇足として繰り返しておくが、低減圧縮からの再現というか再構成された最後の風景は風化して風に還り、そこには元の・基の気や流れしかない。

更にここで蛇足を挟みたいんだけど、「実際ここ数ヶ月の生活、経験、体験、体感からすると、風水や気功で言うところのその気とかっていうコトを、幾分かは自分の体感世界というかイメージ空間というか生活や実践体系というか何というかにそれ(知識・知恵・技術)として取り込むべきなのではないかと思い始めていた。」だなんて最初に書いたことね、これは例えば、

・身体が勝手に動く。何らかの流れ、身体の輪郭の外側から訪れる流れに沿って身体が自動で動く。それもずっと以前からのような自己催眠的なレベルや感覚とは違うレベルや感覚で。
・よく分からないが自分が次に何処へ行って何をすればいいのか、分からないままに進んでも満足に至っている。以前からそういうラッキーマンであったがそのような傾向が強くなっている。
・所謂「出会い」というものが星座のような雰囲気で符合してやってくる。よくもまあこのタイミングでこんなことやこんな人が、と思わされることが増えている。最初はそういう「確信気分という妄想気分」が「統合失調症の陽性症状的に」高まっているだけかなあと認知・整理していたが、どうも時間を挟んだり冷静になってみても、自分は何らかの流れに上手くのっていて、というかそういう流れや符合、附置みたいなものが、私の認知認識(究極的には脳みそ)とは別に存在しているような気がしていた。そしてそれをキャッチしている。
・後は端的に、気功で言うところの小周天や大周天を実感、体感、身体感覚として得るようになってきた。それも技術としての再現性を持って。
・その言い換えでしかないとも思うが、オーガズムを(イメージで、イメージから)誘発できるようになった。
・その他、街や身体に潜む「気とか流れのようなもの」を、実感とか体感をもって感知し始めた。以前よりもかなりかなり強く。少なくともそんな感じがあって、現実的な意思決定の助けにしていたりする。

とかそう言うことを指してた。それでなんで気とか流れとか、風水めいた気流とかって話になるの?って思わせるような項目もあるし、ああだから気とか流れとか、風水めいた気流とかって話になるのね!って思わせるような項目もあったでしょう。まあこのまま並記させておいてよ。

あとさあ、さっきの情報量低減圧縮の過程のね、できれば最初か最後の両極端のどちらかどちらでもあった方がいいのだけれど、殆どの人は

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みたいなタイプかつグレード(完成度)として存在していて、それは多分最近の教育トレンドというか文明の集合と誤謬の自然な帰結なんだろうけれど、そしてまた何故かこういう人・亜種は、

・海、海の流れ、流れ、気流、気、流、蠢き

を感知体感している人・種族を情動盲目的に批難攻撃する傾向や場合があるよ。多分、自分が保持しているレンガの建て付けが底の方から壊されるような予感がする、そんな時があるんだろうね。それとしてさえ不完全過ぎて脆いから特に。それは多分正しいよ。海波や気流の種族がそれとして一翼として発揮されたらね。その必要がある時にそうなったらそうなるからね。悪いことじゃない、いつかの予定なんだよ。

変な文章はもう終わり。「ここにある言葉は私の行動によって償却されなければならない」って、ずっと最初から書いておいたけど、それは本当にそうでね、だからこの文章も含めて今までに書いてきた全ての文章は、私が自分の種族とか位置付けとか役割とかってことについて納得、腑に落ちるために必要だったの。そういう作業ってね、誰もが自分なりにするんだよ。

ただそれだけの作業を為す時に、無駄に人に話し掛けたり、無駄な問いを発してはならない。お前がそれを私に振り掛けるとき、私はそれを見ずに聞かずに、お前の代わりとなってお前の底を見渡して、お前の囁きに耳を傾けている。何が観えるか教えてやることはできる。しかしそれをするとお前の耳目は潰れる。

今日も纏まりはなかった!

これでおわり!↑

これが始まり!↓

汎告

またね!

あと言い忘れてたけど、気功とか風水って、

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を「主にはミクロ(体の中と間)に感知して干渉操作する」か「主にはマクロ(街や世界)に感知して対処対応する」かの違いだと思うよ。観ているもののベースは一緒、発想は同根でしょう。つまりイマージュという出来事の性質や効用をどこまで引き出すかという試みや営み。これを語る殆どの人はむしろ脆いレンガだから気をつけなきゃだけどね。

あと一見関係ないけど、唯物論とか(それに類する色んな言葉)って、「現在のところ目に見えている物事を材料にして判断する、推論を組み立てる」っていうスタイルを指すと思うよってことと、そうすると唯物論なんて顕微鏡や望遠鏡が発明されて覗かれた時にはキメラのようにメタモルフォーゼ/変態した、したようなスタイルなんだからさ、もはや一つの(知的)スタイルとして成立してないししないし、言葉として発話する価値はないよ!端的には唯物論なんてないよ!だから唯名論もないよ!それぞれが感知できるものを感知して、それを材料にしながら、その時点や地点から感知できるものも感知できないものも推論類推して生み出しているだけだよ!

だからあるのは究極、身体の開発度合い、だけだよ 多分ね

でもそう考えるとわくわくするでしょ

おやすみエルフの卵たち

『エルフの比喩』


後記(でも最初に浮かんでいたこと)

私個人の実践、意識、宣言としては、限りなく広く・深く・大きく・早く・速く・強く・そして静かに微かに円環する陰陽そのものでありたい。その限りない疾さからして陰か陽という刹那さえあり得ないような陰陽に。限りなく拡大・拡張・拡充しながら、限りなく縮小・凝縮・凝集していく矛盾の核心のような陰陽。そのどちらかでしかない者が触れたなら、全てを呑み込むか弾き飛ばしまうような陰陽。もちろん、動きを止めて向き合って隣り合って寄り添って混ざり合ってもいいし、時には一人で破れて内部衝突することも可。ぶっちゃけなにがなんだっていい



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