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また何かしら、名前のない生命と繋がらないと、と思っていました。

山に入りナミヘビやアオダイショウを求めたこともありましたが、天候や季節の難という以上に、私の心にしこりのようなものがありましたので、結局は見つからず仕舞いに終わったこと数度でございます。

あの時の記憶が正しければ、私は、山に入り蛇を探してはいませんでした。心の底では蛇でないことを承知していたのです。小鳥じゃなければならないこと、まず小鳥、初めて私が殺した動物でなければならないことを、私は知っておりました。

私は幼い頃に小鳥を数羽は殺しました。少なくとも一羽は確実に意識的に殺しました。私以外の誰しもは小鳥の殺害に気づくことなく、不慮の自然死のように片付けていたように記憶しております。実際、私が小鳥を殺したという事実の一切は存在せず、どんな他者からも指摘や叱責を受けることはありませんでした。

しかし私の心の奥底には、私こそが小鳥を殺し続けた風景が保存されたのです。私は社会的病質者ではありませんでした。むしろ他の生命への共鳴共感能力に長けておりましたが、だからこそという点に加え、部外者からの「飼育に関する激しい抑圧」によって、「飼育するという営み」に疲れ切っており、そんな私の手の中で小鳥は既に死骸のように感じられました。

あんな小さな記憶の塊に、私からの死の絶対のイメージは重かったのでしょう、そのように感じ始めてから早くに自然と死にました。この時にはそのイメージという物事や出来事の性質に、私は気がついてはおりませんでしたが、しかしながら他一切の現実から断絶した一つの事実、「私が殺した」というリアルと手を結んだ次第でございます。

そして今、私の足元に一羽の小鳥がございます。温かいセキセインコで、色合いはベーシックな緑に多色が散っています。入手の仕方には相当の苦心がありましたが、思索や思慮を何周かした後に、結局は一番近くのペットショップで、一番穏やかそうな幼鳥を選びました。籠から出した時にまず感じられ、そして思い出されたのは、彼らの体の熱さと匂い。小さく儚い太陽のようでありまして、柔らかな骨組みは少しの力で握り潰せるように感じられます。そして小麦のような秋の香り。血の通った嘴。何も見ない目。分からない耳。ただ体温。雑然とした羽ばたき。まだ何者でもない神経系。名付けなど意味のない動きの塊。

人間の女性を、ヘビを求める前や、ヘビと同時に求めておりました。というよりアニマルに通じる経路として必要としていました。彼らのオーガズムはその熱量からして自我を焼くこともありますので、名前のない生命というアニマルに通ずる経路として、私は女性を信頼していたのです。勿論その信頼は変わりませんし、通路や経路として以前以上に諸個人として愛着してもおりました。ただ文明の業でございます。言語を透過している時点で人間のアニマルは弱くか細く、少なくともアニマルとの再連携のための触媒としては、やはり真っ当ではないように、その時の最後には感じられたのです。

さて、今も小鳥は足元で眠っております。足元というか足の甲の上で、私の36度で眠っております。彼か彼女かは未だ存じ上げませんが、この鳥、この鳥のアニマルは私と繋がったように感じます。特にそれを感じたのは餌を口から移し、糞を手で受けた時でございます。苦行としてではございません。自然な合理と感じられたのです。

この鳥を買った先程、ケージと餌の購入も勧められました。ケージは既にあると嘘をつき、餌は自分のオートミールがあるからと、断ろうとしたのですが、餌についてはそれまでと同じが好ましいと言われたので従いました。でもそれも必要ありませんでした。糞処理用のシートも必要ありませんでした。食餌の作り方をマニュアルに従う必要もありませんでした。飼育のための鳥を食用とすることを禁じたりする法律文書も、そんな条文に拘束されることへの同意書も、全てが必要ないように思えたので道中で捨てました。

小鳥は左手に収め歩いて家に帰りました。小鳥は嘴が痒いのか、他に訴えたいことがあるのか、温かい嘴で私の皮膚を啄みました。電車に揺られながら視線を向けると、啄むことをやめて大人しく手に収まっておりました。満員へと向かう夕暮れの電車に喚くこともなく、足を畳んで私の左手に収まって、そのまま家に迎えられたのでございます。

お腹が空いているようでしたので、食餌の作り方を、店員さんに教えられた作り方を思い出しました。

・小鳥用の粟を60度のお湯に5分から10分くらい浸すこと
・50度前後を維持しながらスプーンで掬って嘴の前に置くこと
・冷えたら食べなくなるので必ず温め直すこと

などの手順でございました。私はこういったこと、こういった事態や現象には詳しくなっておりましたので、自然と以下のように致しました。

・私が普段から食べているオーツ麦をそのまま口に含んで咀嚼し
・嚥下せずに唾液と混ぜて温めて
・口の中で少し丸めて舌の上に乗せ
・そのまま幼鳥の前に舌を出す

するとやはり啄みます。餌自体が冷えても食べ続け、満腹になったら手から飛び降りていきました。残ったオーツ麦はオートミールとしてそのまま私が嚥下しました。私はこの時に、アニマルとまた繋がった、私はまたアニマルであれたと感じました。そしてそれまでは快楽や苦痛としてしか噴出されなかった無色のエネルギーが、下から昇りながら碧となり、涙のように目から溢れました。お腹の深いところは波のようにうねりました。私は久しぶりに嗚咽し泣きました。嬉しいやら悲しいやらというシンプルな事態です。

私は分かったのです。というより、イメージが浮かんで従ったのです。それは母鳥の口移しでした。スプーンの上で食餌が冷えた時、幼鳥が咀嚼を止めるのは、目の前の風景から母鳥の体温が消え去ったからなのです。スプーンが母のように熱ければ、または誰しもの熱い舌の上なら、餌が冷えようが幼鳥は食べるのであります。そのイメージが浮かび、そんな理解に辿り着き、理解の前から口移しした時、そして満腹まで啄み続けた幼鳥が手から飛んで降りた時、私は許された、繋がり直したような気がしました。アニマル、名前のない生命と。

本を読む私の左手の傾きと、幼鳥は遊び続けていました。ペンを動かせば踊り始めました。お尻を足場からずらした時には私の手が糞を受け、そのまま水に流しました。羽が落ちれば口にいれ、小鳥の成分を舌下吸収しました。私の免疫系は小鳥を学習しているのです。そのこととは関係なく小鳥を口に柔く含み、楽しそうなので舌で遊んでやりました。小鳥は粘膜を感知して優しく啄み、私は痛くありません。

生命に名前はございません。なので小鳥には名前がありません。というより永遠の未定です。これからこの鳥が死ぬまで、私は小鳥と少量の穀を持って出掛けます。必要とされている穀や、食べさせてみたいものを、口内調理して口移しします。糞は上手く道に落とすか手で受けて水に流します。抜けた羽は風が運ぶでしょう。籠は買わず、必要以上の仕切りと区切りを設けません。

私はまたアニマル、名前のない生命と繋がりました。この鳥は足の甲を楽しそうに啄んでいます。私の足は柔らかくその背を撫でました。




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